アフターコロナ 14(共生)
前回、アフターコロナでは、主体的に生きることが大切になるのではないかと書きました。その点、現在の学校教育では、深刻な問題があると危惧しています。
休校が長引くと、学校の存在意義が再確認され、いろいろと論じられています。学習のみならず、人と人とのつながり、いわゆる共生を学ぶ場としても大切であると言われます。それは全く大事なことで、何の異論もありません。休校で、皆が家にいると、共生を学ぶ機会が失われるのではないかと心配する人も見られます。
現在の学校教育では、共生の機能が激しく毀損されているように見えます。個々には、深い思いやりの心をもった児童も少なくありませんし、共生を高い次元で学んでいるように見える子もいます。しかし、他人や社会に無関心であったり、ネット上で誹謗中傷をすることにためらいがなかったり、自分さえよければというエゴをむき出しにする若者や児童が驚くほど目につきます。
いろいろ原因があるかも知れませんが、大きな原因のひとつは、受験の低年齢化があるのではないかと思っています。受験は、チームプレーではありません。自分ひとりが、他の生徒たちと戦います。友だちでさえも、競争相手です。友だちとともに力を合わせて受験に臨むことはできません。最近は、かなり多くの小学生が中学受験をするようです。遅くても4年生には、早ければ1年生か2年生から受験勉強を始めるようです。受験の性質上、孤独な闘いです。塾や学校で同級生がいるとしても、受験は自分ひとりでしか取り組めません。しかも、自分が合格するには、代わりに誰かが不合格とならねばならないので、皆で手を取り合って、というわけにはいきません。物心ついたころから、過酷な競争を孤独に戦うことになります。共生の思想は邪魔ですらあるでしょう。
受験のすべてが悪いとはいいませんが、現在、あまりに受験が過熱化していることは、子どもたちの成長にとって、いいこととは思えません。
コロナingが、受験のあり方を変えつつあります。どのように変わるか、どの程度変わるかは、見通せません。アフターコロナ 11(教育改革)でも書きましたが、公平な受験が成り立たないなら、受験の仕組みが変わらざるを得ず、アフターコロナ 12(学歴)に書いたように学歴が値打ちを低下させるなら、『巨人の星』の星一徹・星飛雄馬 父子のように、すべてを捨てて受験に取り組む意味はなくなるでしょう。本当に勉強したい人が、自分にふさわしい学校へ進学すればいいのです。行きすぎた学歴信仰は子どもたちを歪め、社会を歪めます。
私たちは、一人では生きていけません。社会に参画し、支え合って生きていくしかありません。世界は、競争によって成り立っているのではなく、共生によって成り立っています。たとえば、1本の鉛筆すら、一人の人間の力では作り出せません。原料を採取する人、原料を運ぶ人、工場などで加工する人、そもそもその工場や機械を作る人、流通にたずさわる人、販売にたずさわる人、それらに関連する仕事をする人、働く人たちを支えている人たち。あんなちっぽけな鉛筆でも、どれほど多くの人の手によって作られているでしょうか。それらの人たちが協力しなければ、1本の鉛筆すら成り立ちません。この複雑な現代の社会では、高度の共生こそが、何より大切です。21世紀になってから、多様性(ダイバーシティ)、持続可能な(サステナブル)社会、インクルーシブなど、いくつかのキーワードが出現しています。SDGsも、つまるところは共生の具現化に他なりません。
学校は共生を学ぶ場である、という主張はその通りだと思いますが、子どもたちが集まれば自動的に共生が身につくかというと、そうでもないでしょう。学校が大切な場であるのはその通りですが、学校だけが共生を学ぶ場であるということもありません。休校が長期化したとしても、共生が損なわれるものではありません。それは次回に。