独学で大学受験 16 ホームスクーリングを決断

 

2006年には、京都大学大学院教育学研究科が地域と協定を締結して野殿童仙房生涯学習推進委員会をたちあげた。6月のことである。それから、京大は月に1~2度くらいのペースで童仙房に来た。8月には、童仙房の廃校舎で夏季セミナーを開催した。

京大は地域の行事にも参加した。11月に南山城村が「活き生き祭」という祭を毎年開催している。村内の各団体、個人がブースをだして、収穫物、加工品などを販売する。童仙房の地域と京大が共同で出店した。

秋に、童仙房の小学校近くの道路脇に掲示板を立てて、こんな文章を張り出した。

生涯学習とは何でしょう。

学校の勉強だけが学びではありません。
子どもの時だけが学ぶ時というわけでもありません。

おとなになっても学ぶことができます。
自然からも、友達からも、学ぶことができます。
子どもからも学ぶことができます。

だれもが、自分の知らないこと、知りたいことを持っています。
だれもが、自分の知っていることを持っています。

知っている人が知りたい人に教えてあげること、
知りたい人が知っている人から学ぶこと、
そこでは、みんなが先生で、みんなが生徒です。

人は、いつでも、だれからでも、何からでも学ぶことができるのです。
そして、学んで知ったことを、まただれかに教えてあげたら。

掲示板はそのためにだれにでも開かれています。

生涯学習という言葉はよく見かける。大人のカラオケとかサークル活動が生涯学習と呼ばれることもある。間違いではないが、生涯学習の本質は意外と知られていない。「いつでも、どこでも、誰からでも、何からでも学ぶ」ということだ。

学校教育では先生と生徒が固定される。学ぶべきことがらが定められ、定められたことがらをどのくらい習得できたか評価される。カリキュラムや時間割は定まっており、クラスの全員が同じことをする。

生涯学習の概念では、何も定まっていない。カリキュラムも何もないのではなく、定まっていないということだ。自分が学ぶことを選び、自分が学び方を定め、望むだけ、望むように学ぶ。こんなイメージだろうか。

教授は、「目的のない学び」という概念を提唱していた。学校教育は目的を厳密に設定する。すると、目的からはずれたことはやらない。教科書にないことは学びの対象ではない。試験にでないことは学びの対象ではない。すると、学びの対象が限定され、狭くなってしまう。対象から少しはずれたものは学ばない。このことへの批判はすでに各方面から噴出しているが、学校教育のシステムはそういうものなので、なかなか打破できない。もしかすると、今後も末永くこういうシステムのままで継続していくのかも知れない。

学ぶ目的を設定しないということは、どこまででも、無制限に、永遠に学びが拡大し、継続していく。終わりがない。完成がない。だからこそ、生涯学習なのだ。と、私は理解した。

学ぶ目的を設定しないということは、ややもすると、何も学ばないという結果になりかねない。そこをどうするか。

と、夫婦で常に対話していて気づいた。わが子に望む学びのスタイルは、こういうものではないのか。

秋には、第一子の教育をどうするか、結論をださなければならない。いよいよタイムリミットだ。わが子のことだ。親が責任をもって決断しないといけない。

童仙房にて、自らの手で、生涯学習的にやっていくなら、ホームスクーリングか。考えたこともなかったが、実例は知っている。不登校からホームスクーリングを始めた方もいる。国内では非常に少ないが。

ホームスクーリングについて、調べた。法律的にはどうなのか。教育は義務でなく権利である。いっぽう、保護者は子どもに対して普通教育を受けさせる義務がある。しかし憲法にも教育基本法にも、学校へ行かせなければならないとは書かれていない。学校教育法には、小学校へ就学させる義務があると書かれている。学校教育法を厳密に解釈するなら、不登校は法律違反である。現在はそのような運用はされていない。しかし、不登校ではなく意図的に学校へ行かせずホームスクーリングをすればどうなるのか。法学者の見解がいくつかみつかったが、違法でもなく合法でもなくグレーゾーンだが裁判になっても違法にはならないだろう、というところのようだ。もし違法になれば、不登校に遡及せざるを得なくなり、混乱は避けられないだろう。

では、法律はクリアできるとして、子どもにとってはどうなのか。

問題は大きく2つ。学力と社会性だ。これについては、かつて不登校について学ぶために精力的に動いた時期があり、その経験が役に立った。不登校児は千差万別で、ひとくくりにはできない。不登校になったいきさつも、不登校になってからの過ごし方も、親の対応も、それぞれだ。その中で、私が確信したのは、「不登校ならば学力が低い」「不登校ならば社会性が低い」という2つの命題がどちらも偽であるということだ。勉強に苦労している子も多いし、社会性に苦労している子も多い。しかし、学校に行っていても、勉強にも社会性にも苦労する子が多く、不登校だからハンディがあるとは言いきれない。不登校児の中には、しっかりした学力を持っている子も少なくないし、しっかりした社会性を身につけている子も少なくない。

わが子にホームスクーリングを選択しても良いのか。ためらう。

教授に打診してみた。積極的に推すことはないが、「そんなことはやめておけ」と否定でもない。いいんじゃないですか、というニュアンスだった。否定ではないのだ。

とうとう、夫婦で決断した。ホームスクーリングでいこう。ものすごく迷い、ためらい、行きつ戻りつしながらの決断だった。

そのように第一子に伝えたら、ある日、こう言った。「ボクの行く学校の名前を考えたよ。いつでも学校、どこでも学校、だれでも学校っていうんや」

教授にそのことを話したら、「なんと、生涯学習の本質を理解していますね。すばらしいですね」とのこと。第一子は掲示板の言葉を借りたにちがいないし、教授もリップサービスが入っているだろう。第一子がホームスクーリングを拒否していれば撤回した。でも、この展開だ。やってみよう。

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