日本と世界15(第2次物部東征 出雲王国滅亡)

前回第2のヒミコ(卑弥呼)(宇佐の豊玉姫)が、都万・豊王国を引き連れてヤマトへ第2次物部東征を準備していると書きました。

243年、豊玉姫は再び魏へ使節を派遣しました。さらに、245年に、再度、魏へ使節を派遣しました。このとき、タジマモリは伊都国長官の立場で、外務大臣役でもありました。戦場で掲げる黄色の垂れ幡を受け取ってきました。それは、物部王国の領地(都万・豊王国)が魏の属領になったことを意味します。そして、魏は、属国の戦争を指揮するために、軍事指導者を派遣しようと考えました。247年に4度目の使節を送ったときには、魏は、タジマモリを女王に次ぐナンバー2と見なし、2度目の黄色幡と木簡の戦闘命令書を授けました。

第2次東征は都万国を出航した後、宇佐で一時停泊しました。宇佐宮に、魏からもらった黄色幡を8本並べて戦勝祈願したので、宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになり、武力の神とみなされるようになりました

248年に、物部・豊連合王国軍は山陰側と瀬戸内方面へ分かれて進軍しました。

 

 

主軍(瀬戸内)

東征軍の主流はイクメ王の物部軍船です。豊玉姫、豊彦、豊姫の豊国軍船が続きました。瀬戸内方面の征服戦は8年続きました。安芸国(広島)へ上陸して出雲王国を南から攻めましたが、豊玉姫が病気となり、厳島(いつくしま)に宮を建てて養生にあたりました。豊玉姫は、イクメ王を最高司令官に任命して先へ進ませ、吉備を攻めました。豊玉姫の回復を待つため、物部軍、豊国軍はそこへとどまらざるを得ませんでした。

 

タジマモリ軍(田和山攻撃)

タジマモリは黄色幡4本をもって軍船に乗り、出雲王国へ向かいました。ねらいは田和山神殿です。

吉備による第1次出雲戦争の後、東出雲王国は、宮殿が目立たないようにするため、出雲王国の霊畤(祭の庭)を田和山(島根県松江市)に移しました。田和山の霊畤では、出雲型銅剣を木にかけて大祭が行われました。大祭には各地の代表者が集まりました

ヒボコの子孫であるタジマモリは、船で日本海を進み、田和山へ向かいました。宗教王国の出雲を滅ぼすには田和山神殿を壊すのが有効と考えたからです。田和山神殿は、小高い丘にあり、防禦のために三重の堀がめぐらされていました。丘の上の守備兵は少なく、攻め上がる敵兵に矢を射かけ、つぶて石を投げて防禦しましたが、多勢に無勢の出雲兵は全員討ち死にし、田和山神殿は完全に破壊されました。討ち死にした中に、王家の人がいました。友田にあわてて埋葬されました。

現在、田和山遺跡が発掘され、三重の堀も、頂上の神殿跡も確認されています。堀にはたくさんのつぶて石と矢尻が見つかっています。開発される予定だった田和山遺跡は保存運動のおかげで史跡公園として保存されることになりました。ただ、何のための遺跡なのかが謎とされています。

田和山遺跡の登り口

田和山遺跡の中腹に復元された建物

田和山遺跡の堀

田和山遺跡の頂上部へ

田和山遺跡の頂上部、神殿の柱跡

田和山遺跡の頂上部からは宍道湖がすぐ下に見えます

田和山遺跡の堀は一部がコンクリートで保護されています

田和山遺跡の住居跡ゾーン

現在、田和山遺跡のすぐ隣を山陰自動車道が走っています。高速道路の向こう側に、「友田遺跡」という小さな碑が立っています。

物部朝倉彦軍(西出雲王国滅亡)

タジマモリより少し遅れて、物部朝倉彦軍が日本海を東へ進みました。豊彦の息子・八綱田と菟上王が、豊国軍を率いて進軍しました。ターゲットは西出雲王国です。西出雲王国の王宮は、現在の智伊神社にありました。出雲軍は、斐伊川から攻めてくると考え、古志本に防御用に溝を掘りました(現在の古志本遺跡)。スパイによって作戦が漏れ、豊国軍は防禦のないところから侵入し、出雲軍はあわてて久奈子の丘(現在の久奈子神社)に逃亡し、新しい宮殿を建てました。古志本に残って戦った防衛軍は敗退し、旧宮は破壊されました。豊国軍は久奈子へも攻めきて、とうとう出雲王国最後の王は降伏しました。

豊国軍の一部はさらに東へ進み、稲葉(いなば)の国で宇佐社を建て(現在の白兎神社、イナバの白ウサギの神話が作られました。

智伊神社

久奈子神社へは長い石段を登ります

久奈子神社

白兎神社

物部十千根軍(東出雲王国滅亡)

物部軍の本体は吉備王国を滅亡させました十千根が率いる別隊が東出雲王国を攻めました。スパイにより裏をかいて攻め入られた東出雲王国は、出雲軍の解散を宣言し、王宮(現在の神魂神社)から逃げ、南方(現在の熊野大社)へ隠れました

熊野大社にて、出雲王国と物部との間で講和条約が締結されました。出雲国を除く広域の出雲王国の支配権を物部王国が受け継ぐこと、王宮を物部十千根が使うこと、などです。王家は、熊野大社の場所で館を構え、先祖を祀りました。

神魂神社の参道

神魂神社

熊野大社

こうして、700年以上続いた日本最初の王国は、第17代目の王で幕を閉じました。記紀では、出雲の国譲りとして神話が作られましたが、史実は、自発的な国譲りではなく、物部・豊国連合軍の猛攻撃により滅ぼされたのでした。

次回は、第2次物部東征、ヤマトへ向かいます。

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