独学で大学受験 26 危機

 

第四子も第三子から2年半で生まれてきた。第三子より2学年下になる。第四子が生まれた2008年は、危機元年であった。

2014年、日本創成会議で増田寛也氏が2040年までに消滅可能性のある自治体リストを発表し、日本中が騒然となった。ほぼ半数の市町村が該当したからだ。わが南山城村は栄誉ある?17位であった。京都府内では1位だ。増田レポートには批判も多いが、理にかなっていると思う。批判が多いのは、それだけ衝撃的だったということかもしれない。

増田レポートは、子を産む母親(20-39歳の女性)の数に着目している。他のことはおいといて、シンプルに考えている。この世代の女性がすべて子を産むわけではないが、この世代以外の女性が子を産む可能性は著しく小さい。ましてや男性が子を産むことはない。出産世代の女性が減れば、シンプルに子どもが減る。

増田レポートは2014年だが、じつは2008年に私は童仙房が危機に瀕していることを理解した。出産世代の女性がゼロに近づいていたからだ。そのときにはまだ少数ながら子どもがいた。わが家だけで4人もいたし。4人というと、童仙房内の中学生以下の子どもの数の2~3割に相当するのだが。20人弱の子どもがいれば、その時点で消滅は見えない。でも、出産世代の女性が激減していた。

目の前を見ていては消滅は見えない。しかし、目の前の状況から未来を推察すれば、消滅は明らかだった。今後、出産世代の女性が増える見通しはきわめて厳しかった。少々増えたところで、大勢に影響はない。2008年時点で、消滅不可避となる不可逆的デッドラインを超えたかどうか微妙だった。この時点で、地域の方々は消滅を意識していなかったと思う。

そして、そのころ同時に、村の中で仕事が激減した。近隣の経済が凍り付いた。2008年はリーマンショックが襲った年だが、ここではあまり関係ない。2000年ごろから目に見えて衰退し始め、年とともに加速していった。2008年は通過点だった。村人として生き、近場の経済で生きてきたわが家は、死活問題と認識した。このままでは行き詰まる。

都会へ移って会社勤めすることも検討した。そうなれば、ホームスクーリングは無理なので、子どもたちは学校へ行く。私の年齢的にタイムリミットが近かっただろう。

家族で話し合った。私としては、田舎で生きる道はなさそうに見えた。今ならギリギリ間に合うのではないか。今を逃せば、田舎から脱出する可能性が閉ざされるか、きわめて困難になっていくのではないか。今、脱出すべきではないか。父親として、家族を守る選択は、脱出に傾いていた。

第一子と第二子が、脱出に強硬に反対した。泣きじゃくりながら反対した。ホームスクーリングをやめることにも反対した。少々の反対があっても脱出を決断しようと考えていた私は、進退きわまった。こまった・・・

童仙房に残ってやっていく道があるのか? できるのか、おまえに?

よくよく話し合って、もう少し童仙房で粘ってみようと思った。地元の経済の中でできることは、もうない。インターネットを使った何か。いくつかのことに挑戦した。家計が困窮した。最悪の時にどうするか、といつも考えるようになった。

うまくいきそうなものもあったが、インターネット上のビジネスは肌に合わない。うまくいったとしても耐えられないほど苦痛だった。2011年暮れ、妻と話し合って、インターネットビジネスから完全撤退することにした。すると、もうなにも、仕事らしきものが残らない。そこで立案したのが、わらしべちょうじゃ作戦だ。2012年正月以降、何が出てこようと、何がめぐってこようと、なんであろうとかんであろうと、最初にであったチャンスをつかむ。それを天命と信じて、全力を尽くしてみる。わらしべちょうじゃのお話では、それが1本のわらなのだ。たとえ1本のわらであっても、しっかりつかむ。

ギャンブルのような人生を生きるということは、どたんばでこんなバカげた行動に出るものである。で、またそれがなんとかなるのであるから不思議だ。

正月あけてすぐ、童仙房に来る以前勤めていた会社の社長から電話があり、在宅の仕事をすることとなった。手段としてインターネットも使うが、ネットビジネスではない。最初は仕事が少なく、家計の危機がどたんばまで行ったが、2年ほど経過すると、まあなんとか暮らしていけるようになった。

さて、一連の危機時代は、第四子が生まれてから5年間ほどに相当する。ということは・・・

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