独学で大学受験 18 勉強嫌いな小学生

 

2007年4月から、わが家のホームスクーリングが始まった。第一子が小学1年生、第二子が4歳、第三子が1歳。第二子、第三子も保育園には行かず、在宅保育だ。第四子はまだ生まれていない。

自分の人生を自分で生きていってほしい。そのためのホームスクーリングだから、管理をしすぎては本末転倒になる。そこで、なるべく管理をしない形でどこまでどうなるか、やってみる。

早期教育に熱心な親が多いが、私は否定的だ。土台さえ作れば、時が熟せば伸びる。土台が弱ければいくらたたきこんでも、そうは伸びないだろう。たとえば、お金に余裕のあるご家庭が、子どもの幼い頃から塾や習い事をどんどんやらせて、惜しげもなくお金をつぎ込んで、大学進学時点では・・・ということは、わりとよく見る光景ではないだろうか。その子の才能不足なのではなく、土台不足なのだ。

そもそも、わが家では受験や進学を目標とはしていない。もっと大きく、人生なのだ。

小学生の勉強は、あわてない、あわてない。

漢字と計算は、ボチボチでもやったほうがいいだろう。計算プリントを毎日パソコンで印刷した。1日1枚ずつが目安。計算のしかたは、進研ゼミとパソコン用学習ソフトで理解できるだろう。漢字の練習も毎日すこしずつでもできたらいい。

が、あまりやらない。第一子は、狭義の勉強がきらいなようだ(広義の勉強は大好きだが)。算数と漢字は、大嫌い。無理強いしないでいると、ほんとうに、やらない。ホームスクーリングで無理強いするくらいなら、学校へ行った方がいいのではないか、と考えて、がまんした。教育や子育てで最も重要なのは忍耐ではないかと考えてきたが、さすがにこの時は強く実感した。

子どもが親の思い通りにならないとき、つい口出ししてしまう親は多いだろう。その気持ちはよくわかる。でも、口出しはなるべくしない方がいいに決まっている(自主性を育てたいなら)。それには、忍耐がいる。

勉強はした方がいいに決まっている。でなくて、しなければいけない。では、子どもが嫌がってやらないとき、どうするか。永遠の解決できない悩みかもしれない。

第一子が小学5年生までは、親は耐えた。耐えた、ということは、第一子はほとんど勉強しなかったというわけだ。漢字、計算をはじめ4科目とも。

小学4年生からは、学習する内容に抽象概念が増えてくる。簡単に言うと、目に見えないことがらだ。昔のこと、未来のこと、遠い世界、地球や宇宙、身の回りにいない生き物、ミクロの世界、おはじきや計算棒でできない計算、理論、因果関係など。それに対して小学3年生までは、ほぼ目に見える具体的なことがらを扱う。だから、小学4年生からは、明確に差がつき始める。抽象概念を扱う力が弱いと、この差は拡大する一方で、追いつくことも埋まることも期待しづらい。抽象概念を扱う力は、学校のカリキュラムでは習得できない。幼少期からの土台づくりがすべてだ、と私は考えている。

第一子が5年生までほぼ勉強しなかったということは、絶望的な落ちこぼれ状態だ。もし学校へ行かせていてこの状態だったら、回復はできないだろう。だがわが家はホームスクーリングだ。

第一子は、土台はじゅうぶんできているはずだ。生後6カ月からの、どとうのような読み聞かせ。3~4歳ごろには、読み聞かせによって覚えてしまった絵本の文字を自分でなぞって読もうとしだした。5歳ごろには自分で本を読んでいけるようになった。6歳ごろには、読み物をどんどんと読むようになった。小学生になると、大人が読むような本でも読むようになった。読むことを強いたことはない。そこから先は、本はかなり読んだ。生き物が好きだったが、様々なジャンルのものを読んだ。第一子のころは、読み聞かせの際、昔話に重点を置くことに気づかなかったが、自分で読むようになってからは、昔話の読み物(子ども向けも大人向けも)を多数読んだ。

わが家が主張する土台づくりは、読むことと書くこと。これに尽きる。

書くことは、本を書き写す、これだけだ。第一子が小学1年生から始めた。毎日、原稿用紙1枚、本を書き写す。最初は、子どもに本を選ばせた。小学生高学年以降は、文豪の文学作品を書き写したが、それ以前は、本の内容は問わなくてもいいと思う。書き写すことなら、だれでもできる。能力も問わない。書き写しは絶大な効果があることを、わが国の先人たちが示してきた。現代は、そのことが忘れられているようだ。

第一子は書き写しも嫌いだった。なかなかやりたがらない。

すべての勉強を捨ててでも、書き写しは重要だ。書き写しは、少しだけ強いた。だから、漢字や計算ほどサボりはしなかったが、やったりやらなかったりで、2日に1枚ぐらいのペースだっただろうか。

書き写しについては、ピンとこない人も多いだろうから、未来を先取りして答え合わせをしておこう。落ちこぼれのはずの第一子は、国立大学に合格した。合格した時、書き写しをしてきたことについて聞いてみた。「書き写しがなかったら、自分がなくなっちゃう」と名言をはいた。第一子は、中学生以降、書き写しのペースをあげたので、これまでに5000枚以上書き写しただろう。第二子も中高生で落ちこぼれ状態だったが、国立難関大学を目指して1浪中で、「書き写しがなかったら、挑戦することすらできなかった」と言っている。第三子は最もたくさん書き、勉強のブランクが皆無だった。読んできた本の量は想像を絶する。中学生からは専門書でも読んでいた。中3時点で模試の成績がすごかった。京大現役合格の私の同じ年とくらべても第三子が大きく上回っていた。現在高2年齢で、さらに模試の成績が上昇している。読むことと書くことの土台づくりによるものだ。第四子はスタートが遅れ、勉強しだしたのは小学3年生ごろから。読み聞かせも幼少期には貧弱だった(親の責任)。小学1年生から読み聞かせを取り戻し、書き写しも順調に積み重ねた。現在中3。私の同じ年とくらべて同等の成績だ。

そもそも、大量の読み聞かせと書き写しがなかったら、独学など不可能だっただろう。書き写しの重要さはいくら強調してもしきれない。が、不思議なことに、理解されない。書き写しを蓄積せずに勉強をしていくのは、ずいぶん遠回りをしているように見えてしまう。

逆に言うと、勉強で悩んでいるご家庭にとっては、3点リードされた9回裏ツーアウト満塁フルカウントからの代打逆転満塁サヨナラホームランになるかも知れないのだが。

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