日本と世界12(第1のヒミコ)

前回、第1次物部東征によって、ヤマトに物部勢が入って来たところまで書きました。すると、さっそくあつれきが生じたのですが、その原因は、宗教戦争です。出雲は、銅鐸をシンボルとするサイノカミ信仰であり、太陽神を祀ります。物部は鏡をシンボルとする道教神崇拝です。物部勢は、ヤマトの銅鐸を壊してまわり、鏡を木にかけて祈る祭を、ヤマトの人びとにも強要しました。

銅鐸祭祀のジオラマ(橿原考古学研究所附属博物館

八咫烏(やたがらす)こと、太田タネヒコは物部勢の武力を利用してヤマトの出雲勢力を弱体化することに成功し、ヤマトの大王になることをもくろんで、三輪山の祭主となりました。

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画『神武天皇東征之図』)(wikipediaより)

それまで、三輪山の南にある鳥見山で行われてきた三輪山を遙拝する祭は、三輪山の西の太田家の領地で行われることになりました。ヤマト王朝の初期から、サイノカミ信仰に基づいて春と秋に大祭が行われ、三輪山にこもる太陽の女神を祀っていました。その中心が姫巫女(ヒメミコ)です。大王をはじめ、ヤマト中の豪族たちが集まって祭に参加しました。このような、祭を中心とした政治方式が行われていました。祭祀は政治より上で、祭祀は女性によるので、姫巫女を中心とした政権でした。

大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居。左後方に見えるのが三輪山

大神神社の拝殿。ご神体は後ろの三輪山

三輪山の祭主が太田家に変わると、モモソ姫が姫巫女に推挙されました。記紀にはモモソ姫は大王の娘とされていますが、太田家の娘です。このヒメミコが魏志倭人伝では「ヒミコ(卑弥呼)」と記されました。ただし、239年に魏へ使いを出して100枚の鏡をもらったという「ヤマタイ国」の「ヒミコ」はモモソ姫ではなく、別人です。太田家の領地は、現代において、太田遺跡として発掘され、今は纏向遺跡(まきむくいせき)と呼ばれています。第1ヒミコは纏向遺跡に住んで祭をしました。しかし、ヤマタイ国ではありません。魏志倭人伝のヒミコは、2人のヒメミコがヒミコという名で記録されているので、1人の人物だと誤解しがちですが、ヒメミコは個人名ではなく役職名なので、たくさんのヒミコがいて問題ありません。

『魏志倭人伝』にこう書かれています。

其の国(日本のこと)、もとまた男子をもって王となす。とどまること七、八十年、倭国(日本)乱れて、相攻伐すること年を歴たり。すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼(ヒミコ)という。

『後漢書』にはこうあります。

桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、年をふるも主なし。一女子あり。名を卑弥呼(ヒミコ)といい、年長ずるも嫁せず、鬼神の道につかえて、よく妖をもって衆をまどわす。ここにおいて共に立てて王となす。

男王が70~80年続いて(海王朝)、後漢王朝の桓帝と霊帝の147年~188年に日本が戦乱の世となった(倭国大乱)(磯城王朝)が、その後、ヒミコが女王となって平和が来たとのことです。そして、ヒミコの弟がヒミコの世話をしたと書かれていますが、ここでいうヒミコはモモソ姫、弟とは太田タネヒコです。

ヤマトの民衆(出雲族)は武力による戦いを好まなかったので、物部勢の武力よりも、モモソ姫の宗教力の方に民衆の尊敬が集まるようになり、物部勢と磯城王朝との抗争は次第に収まり、ヤマトに平和が訪れました。そして、ヤマト中心の政権力も回復しました。

纏向遺跡の建物模型(桜井市立埋蔵文化財センター

モモソ姫の祭のために大神殿が建てられ、新しい街ができました。神殿での祭は、物部勢の祭具の鏡を取り入れた形になっていきました。丸い鏡は太陽の女神のご神体とされました。これらは、纏向遺跡として発掘され、当時の様子がわかりつつあります。出雲族の親族は、東海、関東、信濃、中国、四国へ広がっており、祭の時には土器に供え物を入れて、全国からヤマトへ集まってきました。纏向遺跡では、遠方で作られた土器が多量に見つかっています。当時、纏向に強い王権があったのだろうと解釈されていますが、出雲王国は王権で成り立つ社会ではありません。一族のつながりで成り立っていたのです。

纏向遺跡へ全国から集まってきた土器(桜井市立埋蔵文化財センター

ところで、九州の土器はほとんど見つかっていません。太田家の勢力に圧倒された物部勢が九州へ戻ったためです。つまり、第1次物部東征は失敗に終わったのです。オオヒビ(第9代開化天皇)のとき、太田タネヒコはモモソ姫の人気を利用して、物部勢をヤマトから追いだしたそうです。彼は大王に匹敵する力を得、死後は桜井茶臼山古墳に葬られました。彼の息子の大御食持(おおみけもち)はメスリ山古墳に葬られました。欠史八代の最後である開化天皇の次は、第10代崇神天皇となっています。崇神天皇は物部の王で、そもそもヤマトに来ていません。第9代と第10代の間で王朝が断絶します

桜井茶臼山古墳

桜井茶臼山古墳の墳丘には葺き石らしき石が

モモソ姫は、亡くなった後、箸墓古墳に葬られました。箸墓古墳は、ヒミコの墓ですが、ヤマタイ国のヒミコではなく、ヤマタイ国とは無関係です。太田遺跡(纏向遺跡)では、箸墓古墳より前に、小さな前方後円墳がつくられています。古墳の発祥は吉備です。出雲の四隅突出型墳墓は古墳には含められていません。吉備型が発展した前方後円墳は、道教に由来するもので、徐福と出雲の合わさったようなものです。前方後円墳の始まりは太田遺跡です。

箸墓古墳は古墳初期としてはとても大きな墓ですが、それは権力の大きさではなく、ヤマトに平和をもたらした功績によるものです。

箸墓古墳

箸墓古墳の遙拝所

ところで、第1次物部東征が失敗して九州へ戻った物部は、ヤマトをあきらめたでしょうか? もしそうなら日本の歴史は全く違ったものになっていました。物部のリベンジは、次回に。

 

 

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