独学で大学受験 12 京大と連携

 

2005年秋、童仙房の小学校(野殿童仙房小学校)の廃校が決定したのだが、統合小学校へわが子を通わせることはためらわれる。教育をだいじにする地域へ引っ越すか、オルタナティブ教育(シュタイナー学校のような学校教育外のスクールなど)の道を選ぶか。この時点で、ホームスクーリングはまさか夢にも思わず、検討対象ではなかった。

オルタナティブ教育の道は、容易ではないし、何より怖い。わが子をゆだねられる学校のある地域へ引っ越すのが現実的ではないか。決断するリミットまでは1年もない。

年の暮れが迫った12月中旬、妻がおもしろい冗談を言った。「京大の教育学部にたのんで、童仙房に小学校をつくってもらったら? 廃校跡をつかって」

こんなバカげた冗談にかかわっているヒマはない。のだが、現実は煮詰まっている。荒唐無稽な動きでなんらかの思いがけない道が開かれるということはあるかもしれない。私が童仙房に移住する前に勤めていた会社の社長が京都大学教育学部の出身だ。ざっくばらんに、冗談を伝えてみることにした。

12月30日、社長のご自宅を訪れた私は、別室へと招かれた。社長が手にした封筒をみて、状況を理解した。年の瀬に「相談があります」といって自宅を訪れたことで、お金に困って年を越せないという相談だと思い、いくら入っていたのか知らないけど封筒を用意してくださっていたのだ。たしかにそう解釈してしまうような訪れ方だった。冗談を伝えに言ったら別の笑い話があったというオチで、のっけからこけている。

いやじつは・・・と話を切り出すと、「そんなもん、京大が動くわけないやろ。あんたにもそんぐらいわかるやろ」ときわめてまっとうなリプライ。でもつづけて、「ちょっと待てよ。むちゃくちゃな話はきらいではないんで、正月の間考えてみる。宿題にしてくれ」

かつて、他のママさんたちから妻が、「どうしてダンナさんはパチンコもギャンブルもやらないの?」と聞かれて、「人生がギャンブルだから」と感動的なセリフを返したことがある。思えば、社長も同類だったのだ。

年が明けてすぐ、社長から電話があった。「あの件をずっと考えていたけど、ふさわしそうな教授を思いついた。会いにいってみるか?」とのことで、もちろん「ぜひ!」と瞬答。1月10日に、京都大学大学院教育学研究科の教授(生涯学習専門)の研究室を、社長と2人で訪問した。

2004年に国立大学が法人化されたことは、とうぜん知っている。そのために競争に勝ち抜くための「経営」をしなければならなくなったことも知っている。あの東京大学が初めて大学案内の冊子を作ったことも知っている(法人化前には、東京大学は大学案内が必要なかった)。国立大学にとって、明治維新か戦後民主化なみの大変革だった。

京都大学も、何かを考えなければならないはずである、たぶん。山の上の廃校跡に不登校児を念頭に置いた新しいタイプの学校を提案した。教授は、「おもしろいですね。ちょうどフィールドを探していたところです。なにか考えてみます」とのこと。研究室を出て帰路についた社長と私は、何が起きたか理解できなかった。なぜ、門前払いではないのだろう?

たてつづけに、研究室を訪問した。教授は、不登校という限定された枠組みではなく、だれもが対象となる生涯学習でフィールドを立ち上げてみたいとのこと。教授会で検討し、学部全体として取り組むことにおおむね賛同を得たとのこと。天地がひっくりかえるほど驚いた。私の子は不登校ではない。わかりやすいテーマとして不登校をあげたが、限定しないほうが、私にもありがたい。

初めて研究室を訪れて1カ月後には、大学院生を対象に、童仙房の紹介をプレゼンした。

3月2日~3日にかけて、京大グループが童仙房を訪れた。野殿童仙房小学校はまだ廃校前である。土曜日なので授業はないが、校長先生がいらっしゃったので、許可を得て、校舎内を見学させて頂いた。いきなり京大教授と大学院生たちが訪問したことで、校長先生はひどく緊張し、警戒されたようだ。

野殿童仙房小学校のすぐ裏手に、第一子が通っていた野殿童仙房保育園があった。この保育園も、同時に統合により廃園となる。保育園は外からの見学だった。

夜、一行は、童仙房にある民宿「童仙房山荘」に宿泊した。童仙房の役員たちに来てもらって、京大と地域の初顔合わせとなった。地域側は、廃校によって地域が衰退することを怖れていた。だから、京大が来てくれることはスーパーウェルカムだった。この時点で、どんな活動をするかは具体化されていなかったが、地域側は、何でもいいからゴーゴーという感じだった。

もう、障害はない。

3月3日に京大グループが京都へもどり、3月7日には、京都大学大学院教育学研究科長(いわゆる学部長)名義の、廃校跡地利用要望書が村長宛に作成され、私が受け取った。翌日、童仙房区長へ手渡し、その翌日、童仙房区長と野殿区長が村長宛に提出した。

ここまで、私が初めて研究室を訪問して2カ月たっていない。

村長は対応に困ったようで、返事が無かった。童仙房区長は、「村が動かないなら自分らでやる」といって、廃校後に学校の鍵をあずかった。

4月から廃校となり、4月29日には、廃校となった小学校の教室で、寄合が開かれた。京大グループと地域住民の顔合わせだ。地域住民は、京大が地域を活性化してくれることを熱望した。教授は、そのようなニーズには応えられないと言った。地域とともに相談しながら、できることをやっていこうと。

その場で、地域(童仙房区と野殿区)と京都大学大学院教育学研究科が協働して活動していこうともりあがり、野殿童仙房生涯学習推進委員会という組織を立ち上げることが決まった。大学と地域が協定を締結するときは、地域の側はほぼ例外なく市町村である。我々のケースは、村ではなく、自治会である。

6月23日、小学校体育館で、野殿童仙房生涯学習推進委員会の発足調印式が開催された。京都大学大学院教育学研究科長、童仙房区長、野殿区長が協定書に印を押す。研究科長(学部長)さんが、遠路、童仙房まで来てくださった。新聞各社にプレスリリースしておいたので、各社が取材に来てくれた。翌日は各紙に掲載された。この調印式には、どこからも予算が出ていない。まったくの手作り調印式であった。

私が初めて研究室を訪れてから、半年たらずであった。あまりの急転回ぶりに、めまいがしそうであった。

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