日本と世界16(第2次物部東征 ヤマト王朝交替)

前回、第2次物部東征の途上で出雲王国が滅亡する過程をお話ししました。第2次物部東征の目的は、出雲王国と吉備王国を滅ぼした後、ヤマトへ攻め入り、ヤマト朝廷を奪うことです。

物部軍は都万・豊王国連合軍(邪馬台国)で、宇佐の豊玉姫(第2の卑弥呼)が総大将です。瀬戸内に進んだ主軍は、イクメ王の物部軍船と、豊玉姫、豊彦、豊姫の豊国軍船でした。途中、豊玉姫が病気となり、厳島で養生していました。しかし、豊玉姫は、安芸国の埃ノ宮(えのみや)で亡くなり、宮島へ仮埋葬されました。遺骨は宇佐へ移され、宇佐八幡宮の奥山へ墳墓が作られました。

魏から派遣された軍事司令官は、豊玉姫の13歳の娘・豊姫を次の女王に指名しました。魏志倭人伝に台与と書かれているのが豊姫です。豊姫がNo.1で、イクメ王(第11代垂仁天皇)がNo.2という序列になります。

ヤマトをめぐる攻防

都万・豊王国連合軍は、出雲王国と吉備王国を滅ぼして、大和へ向かいます。ところが、ヤマトで、連合軍内の争いが生じます。

ヤマトへ一番乗りしたのは、田和山神殿を破壊したタジマモリ軍です。ヤマトでは、磯城王朝の王子、サホ彦が防衛していました。タジマモリは自分が大王になろうと画策しました。

そこへ、吉備王国と東出雲王国を滅ぼしたイクメ軍が到着します。イクメ軍は河内から侵入し、ヤマトをうかがいますが、サホ彦軍にはばまれて、ヤマト手前の山地に陣を敷いてとどまります。その山地にイクメ→生駒(いこま)と名前がつきました。

それを見たタジマモリは、サホ彦と手を結び、イクメ軍を襲撃して自分が大王になろうとしますイクメ王は、出雲勢力の助けを借りてタジマモリをヤマトから追い出しました。出雲族は、田和山神殿を破壊したタジマモリへ復讐するためにイクメ王と手を組みました。そのときの、出雲勢(野見宿禰)がタジマモリを追いだした出来事が、相撲の始まりとして日本書紀に書かれています。今、三輪山の北側が相撲の発祥の地とされ、相撲神社があります。

相撲神社の鳥居

相撲神社の本殿

タジマモリが追い出されてイクメ王がホッとするやいなや、豊国軍が到着しました。宇佐の豊玉姫の病気療養と葬式で進軍が遅れていましたが、ようやく到着したのです。イクメ王はサホ彦と手を結びました。

豊国軍は豊玉姫亡き後、娘の豊姫(魏志倭人伝にいう台与)が総大将となり、息子の豊彦が軍を率います。豊姫は豊来入姫(とよきいりひめ)と呼ばれましたが、記紀には豊鋤入姫命と書かれています。豊彦は豊来入彦と呼ばれました。豊来入彦は、豊来入姫を月の女神のヒメミコとして新政権の中心とするつもりでした。さらに、親魏倭王に任命された豊玉姫の息子なのだから、親魏倭王の後継者であり大王になる資格があると考えていました。

だから、イクメ王がサホ彦と組んでいることに不満を持ち、魏から派遣されている軍事司令官に相談し、豊来入姫が豊玉姫の後継者と任命され、連合政権の女王としていだくことになりました。イクメ王も認めざるを得ず、イクメ王はサホ彦と離れ、豊国軍と連合することになりました。

イクメ王は、和国の戦乱がおさまったということにして、軍事司令官に帰国してもらいました。イクメ王は、豊来入彦に大王の座を取られることをおそれ、豊来入彦をけしかけて、サホ彦をヤマトから追い出し、そのまま近江まで追いかけていった間に、イクメ王はヤマトを占領し、大王となりました(第11代垂仁天皇)。といっても、大和周辺の地方豪族にしか過ぎませんでしたが。

イクメ大王は、磯城王朝の娘、ヒバス姫を后としました。ヒバス姫は、ヤマト姫を生みました。ヤマト姫は、朝日信仰を大切にし、各地を転々と移動しながら、伊勢へ移住しました。これが伊勢神宮のはじまりです。ヤマト姫は伊勢神宮の創始者として倭姫(やまとひめ)の名で祀られています

伊勢にある倭姫宮

伊勢内宮の五十鈴川

伊勢内宮の正宮

日本の言葉や文化、宗教観、文明観などの土台の部分は、出雲によって築かれた部分が大きいように思います。もちろん、中国、朝鮮半島、欧米など、さまざまな影響を受けていることはまちがいありません。ただ、日本独自の部分もそれなりにあります。

次回は出雲をまとめます。

 

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