日本と世界8(倭国大乱)

前回徐福が渡来したことで大和朝廷が誕生するきっかけとなり、海村雲(アマノムラクモ)が初代大王となったことをお話ししました。徐福は佐賀県の吉野ヶ里へ再渡来し、物部王国を築きました。徐福は日本の王になりたかったのに、願いかなわぬまま、吉野ヶ里で没しました。

徐福亡き後の物部一族は、やはりヤマト進出をうかがいます。物部のヤマト進出、つまり物部東征は2回ありました。もうおわかりでしょうか。これが神武東征のモデルです。神武天皇は架空の人物と言わざるを得ませんが、神武天皇のモデルは海村雲で、神武東征のモデルは物部東征(しかも2回)です。

『魏志倭人伝』にこう書かれています。

其の国(日本のこと)、もとまた男子をもって王となす。とどまること七、八十年、倭国(日本)乱れて、相攻伐すること年を歴たり。すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼(ヒミコ)という。

つまり、男王が70~80年続いて、その後日本で戦乱の世となったが、ヒミコが女王となると戦乱が収まったといいます。

『後漢書』にはこうあります。

桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、年をふるも主なし。一女子あり。名を卑弥呼(ヒミコ)といい、年長ずるも嫁せず、鬼神の道につかえて、よく妖をもって衆をまどわす。ここにおいて共に立てて王となす。

後漢王朝の11代目・桓帝と12代目・霊帝が在位した、147年~188年に日本が戦乱の世となった、とあります。これが「倭国大乱」といわれ、中国人にはそう言われるが、日本人には何があったのかさっぱりわからない、という歴史のミステリーです。この重要な出来事の記録が日本国内にないのは、ヤマト朝廷の万世一系が否定されるからです。つまり、倭国大乱は、ヤマト朝廷の覇権争いであり、王朝の交替を伴うのです。

当時の武器。鉄鏃、石鏃など。(奈良県橿原考古学研究所附属博物館

出雲の伝承によると、中国の記録は正確です。まさにその年代に、「倭国大乱」がありました。倭国大乱は、1つの戦争ではなく、3つの戦争が次々と起きたものです。弥生時代には急激に戦争の痕跡が増えるのも、まさにこのことです。

倭国大乱の前、男王が70~80年続いたというのは、初代大王の海村雲から、2代目大王のヌナカワ(綏靖天皇)にかけての海(あま)王朝です。3代目大王のタマテミ(安寧天皇)以降は、出雲王家の血が濃くなり、タマテミ自身が磯城(しき)家を称し、磯城王朝へと移行します。政権は出雲文化が中心となり、三輪山の太陽信仰が栄えます。ただ、現代考える天皇のイメージからはほど遠く、強力とは言えない地方豪族にすぎません。3代目以降はだんだんと覇権争いが勃発してきます。まずは、ヤマト内で、争いが生じます。

このあと、話がややこしくなるので、地図と天皇表で整理します。歴史学者はおおむね、2代目から9代目の大王を欠史八代とし、実在しないと考えているようです。出雲の伝承によると、記紀記載のとおり、実在します。系譜もおおむね正しいです。ただし、9代目と10代目は断絶しています。記紀では系譜がつながっているように書かれていますが、まったく別です。別王朝をつながっているように書いているので、この部分は混乱しています。9代目の後、磯城王朝の大王がいますが、記録はありません。10代目、崇神天皇を初代大王と考える歴史学者もいますが、物部王朝だけみれば初代といえます。ただし、東征を計画した物部王であって、ヤマトへは来ていません。ヤマトで大王となった最初の物部王はイクメ大王(第11代、垂仁天皇)です。

 

漢風諡号 和風諡号 出雲伝承 王朝
1 神武天皇
じんむ
神倭伊波礼毘古命
かんやまといわれびこのみこと
アマノムラクモ 海王朝
2 綏靖天皇
すいぜい
神沼河耳命
かんぬなかわみみのみこと
ヌナカワ
3 安寧天皇
あんねい
師木津日子玉手見命
しきつひこたまてみのみこと
タマテミ 磯城王朝
4 懿徳天皇
いとく
大倭日子鍬友命
おおやまとひこすきとものみこと
5 孝昭天皇
こうしょう
御真津日子可恵志泥命
みまつひこかえしねのみこと
6 孝安天皇
こうあん
大倭帯日子国押人命
おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと
オシヒト
7 孝霊天皇
こうれい
大倭根子日子賦斗迩命
おおやまとねこひこふとにのみこと
フトニ
8 孝元天皇
こうげん
大倭根子日子国玖琉命
おおやまとねこひこくにくるのみこと
クニクル
9 開化天皇
かいか
若倭根子日子毘々命
わかやまとねこひこおおびびのみこと
オオヒビ
10 崇神天皇
すじん
御真木入日子印恵命
みまきいりひこいにえのみこと
イニエ 物部王朝
11 垂仁天皇
すいにん
伊久米伊理毘古伊佐知命
いくめいりびこいさちのみこと
イクメ
12 景行天皇
けいこう
大帯日子於斯呂和気天皇
おおたらしひこおおしろわけのすめらみこと
オオシロワケ

下の地図に、倭国大乱と言われる3つの戦乱を示しました。

第1の戦乱 ヤマト内の覇権争い(①)……磯城王朝の弱体化、混迷

第2の戦乱 第一次出雲戦争(③④)……フトニ大王(7代大王の孝霊天皇)が出雲を攻撃し、吉備王国を作る。出雲の弱体化

第3の戦乱 第一次物部東征(⑤)……物部がヤマトへ進出する足がかりとなる

 

ヒボコは『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」と記される渡来人です。日本書紀では垂仁記にありますが、年代はちがっており、じっさいはもっと早い時期です。出雲や徐福と違い、小集団だったそうです。正体は新羅の王子で、兵庫県の豊岡市に上陸して拠点とし、そこは現在、出石神社(いずしじんじゃ)となっています。

ヒボコの子孫は勢力を拡大し、出雲王国の播磨を攻略しました。これにより、出雲とヤマトは分断されることとなりました。ヤマトでは、ヤマト内の争いと物部がヤマトへ侵攻する情報を得たことで、フトニ大王がヤマトを抜け出し、播磨をヒボコから奪い、そのまま、同族である出雲を攻撃しました。

出雲戦争も、物部東征も、第一次と記したように、さらに後に第二次があります。第二次は、倭国大乱よりも後です。

次回は、倭国大乱の第2幕の第一次出雲戦争についてです。

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