昔話と伝説と神話

独学で勉強するために」シリーズで、マネ(モデリング)の方法で読み書きを蓄積することが重要な土台になると書きました。読むこととして、「昔話などの口承文芸をモデリングすることが、非常に有効である」と書きました。

昔話という言葉は一般に使われますが、あいまいな使われ方をされがちです。昔話伝説神話はそれぞれ異なります。民話という言葉もよく使われますが、「民話」は守備範囲が非常に広く、あいまいです。口承文芸に限らず、書物に書かれたお話も含みますし、作者が明確な創作話も含みます。

口承文芸は、まるっきり虚構の昔話と、史実を伝えているようによそおう伝説に分けられます。

「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが…」という始まりに象徴される昔話は、時も場所も人物も特定しないという性質で、最初から架空の話であると宣言しながら始まります。

 

 

伝説は、たいがい場所が特定されます。時が特定されることもあり、人物が固有名詞で語られることもあります。あそこの池で太郎と花子が…といった感じです。もしかすると、なんらかの出来事があって、それを地域の人たちがお話に変えながら後世の人たちに伝えているのかも知れません。鬼や大蛇が出てきたり、人間が動物になったりもしますが、そのもととなる出来事があったのかもしれません。

神話は、世界の始まりや人類の始まりを語るもので、当時の権力者が創作したものもあります。日本の『古事記』や『日本書紀』はそうですね。ただ、語られているストーリーじたいは、当時、伝承されていた話を取り入れたり組み替えたりしたと考えられるでしょう。『旧約聖書』も神話といっていいでしょう。宗教の聖典であると同時に、世界や人類の始まりを物語ります。世界各地に、様々な形で神話が伝わっています。政治や宗教での側面には留意する必要がありますが、壮大な発想や各地の暮らしぶりがかいまみえ、貴重な口承文芸だと考えています。口承されてきた神話が、誰かの手によって書き留められ、現在は書物となっていることが多いようです。現代に神話が口承されることは難しいでしょう。

私の感覚ですが、昔話は比較的ハッピーエンドが多く、伝説は比較的バッドエンド(悲劇)が多いです。「めでたし、めでたし」が昔話、主人公が死んだり、消滅したり、破綻したりというのが伝説、といった感じです(そうでないものもたくさんありますが)。

昔話は、教訓だと思っている人もいるようですが、おせじにも教訓といえないもの(まるで道徳的でないもの)もたくさんあります。笑い話もたくさんあります。ただ、「生きる」ということには強いメッセージを感じます。強く生きろ! たくましく生きろ! なんでもいいから生き抜け!

伝説は反対に、生きることの難しさを伝えているのかも知れません。愛しあう2人が池に身を投げたとか、長者がひどいことをしたので破産したとか、橋をかけるために人柱がたてられたとか。

昔話伝説神話(すべてではありません)に共通するのは、作者がいない口承文芸だということです。人類は長い時代、物語によって、人を育て、教育してきました。書物のない時代には、そうするしかありません。書物によって教育するようになったのは、ごく最近のことです。社会の中の一部の人たちは、数百年前、あるいは千年、二千年前(あるいはもっと前)から書物(紙とは限らず)で学んできましたが、一般民間人のだれもが書物で学ぶようになったのは、近代学校教育が始まって以降のことで、200年も経ちません。

近代学校教育が普及しても、昔話や伝説は語られ続けて来ました。日本では、1970年代あたりで、口承が途絶えました。その理由はテレビです。家庭の居間にテレビが置かれ、みんなが互いを向き合うのではなく、テレビに向かうという生活様式が定着していき、語りはフェードアウトしていきました。世界中で、ほぼ同じことがおきました。

人類がはるかな年月おこなってきた口承文芸の学びに戻ろうというのではありません。口承文芸の学びをベースにすることで、書物による学びを加速させることができます。これは、私の仮説ですが、なんとなく気づいている人もいるように見えます。子どもたちに熱心に読みきかせをしようとする親も少なくありません。なんらかの効果や意味を感じているからでしょう。それは、思っている以上に大きな果実をもたらします。

 

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