大学受験16 下から上へ

前回階層構造は「同じ」と「違う」でできていると書きました。

上から下へ

階層のツリー構造をつくるとき、上から下へ考えるのが普通かも知れません。上位の階層から下位の階層へ。大きなくくりから小さなくくりへ。

コンピュータのディレクトリ構造は、絶対に上からしか作れません。最上位の階層から始め、だんだんとサブディレクトリを入れ子に作っていくことになります。脊椎動物の分類も、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類という最上位の5つから順に始め、だんだんと細かい差異に降りていくでしょう。

このような考え方は、合理的、論理的で戦略的です。高度に知的な作業です。

ところが、このやり方では、構造が世界を含むということはありえません。ある範囲の限定された情報を強力に扱うことになります。近代科学の分析と推論はこのやり方です。

下から上へ

これに対し、ツリー構造を下から上へ作っていく考え方があります。最下層から上位へ向けて。つまり、最も個別のバラバラな情報を多数の小さなグループに分け、その小さなグループを「同じ」と「違う」で中グループに分け、さらに中グループを大グループに分ける方法です。「上から下へ」が分析と推論なら、「下から上へ」は統合と総合です

「上から下へ」の場合、先に構造があり、そこへ各情報を当てはめていく形になります。どこへも当てはまらない情報があれば、無視するか、どこかへ無理にねじ込むか、「その他」としておくかとなります。

「下から上へ」の場合、無理な分類はしません。どこへも当てはまらない情報は、孤立のままで上位へ送ります。「その他」も使いません。何ひとつ排除せず、すべての情報を同等に扱い、最も小さなグループから順に大きくまとめていきます。どんな構造ができるかは、やってみないと見えてきません。

両者の違いは、「上から下へ」が「初めに構造ありき」で、「下から上へ」が「構造が自然と生まれてくる」です。

KJ法

KJ法をご存知でしょうか。文化人類学者の川喜田二郎さんが、データをまとめるために考案した手法です。データをカード(現在はポストイットなどが主流)に記述し、カードをグループごとにまとめて、図解し、論文等にまとめていくもので、共同での作業にもよく用いられます。現在は、ビジネス現場や各種研修・会議などでよく用いられ、あちこちで見かけるので、経験された方も多いでしょう。

川喜田さんが最初にKJ法を世に出したのが、1967年の『発想法』(川喜田二郎/中公新書)で、手元の同書では2007年82版となっており、40年経っても色あせることのないロングセラーです。同書で、KJ法の核心部分が語られています。

KJ法はたいへん広く使われていますが、川喜田さんは、やり方を間違えるとKJ法はうまくいかないと言っています。間違えたやり方の筆頭は、構造を上から下へ作ることだそうです。すなわち、最初から階層構造をもっていて、そこへ集まった情報を当てはめて分類していくだけになると、創造的でなくなるというのです。私がKJ法を批判する意見を拝見しても、上から下へ型でKJ法を理解しているケースが散見されます。

文殊の知恵

KJ法は衆知の組立だと川喜田さんは言います。西洋の近代文明はエリートが大衆を導いていくモデルですが、日本には「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があります。凡人でも三人集まって知恵を出し合えば、知恵の神様と言われる文殊菩薩のように素晴らしい知恵がでてくるというのです。この発想は西洋にはないかも知れません。

英語ではこれに相当する慣用表現として “Two heads are better than one.” (2人で知恵を絞れば1人で考えるよりよい知恵が浮かぶ)があります。2人なら1人より良いという比較です。日本語では「3人なら1人より良い」ではなく、「凡人でも3人寄れば知恵の最高峰に匹敵する」と言います。

上から下への階層構造は西洋のエリート型、下から上への階層構造は文殊菩薩型といえるでしょうか。エリートが既知の知識や枠組みを総動員して思考するのではなく、凡人の知恵を集めればエリートをしのぎ文殊菩薩に匹敵する、これを創造というのだと、と川喜田さんが言っているのはおおむねそんな感じです。

発想法』が刊行されたのが1967年で、その3年後の1970年には『続・発想法』(川喜田二郎/中公新書)が刊行されています。手元の本で確認すると、2008年58版と、こちらもたいへんなロングセラーです。同書では、KJ法を実践することで心身病が治ったとか、学童が勉強好きになったとか、職場が活性化したとかいう報告が紹介されています。上から下への構造化ではこのようなことは起きないでしょう。下から上への構造化ではこのようなことが起きるのです。同書では、下から上への構造化のことを「事実をして語らしめよ」と表現しています。名言だと思います。上から下へは、「エリートの知見をして語らしめよ」となるでしょうか。衆知は小さな事実(経験、観察、試行、思考)の断片です。事実を集めて構造を組み立てるのです。もしかして文殊菩薩の知恵とは、もともとそういうものなのかも知れません。

下から上への構造化は、川喜田さんのみならず、『知的生産の技術』(梅棹忠夫/岩波新書)や『思考の整理学』(外山滋比古/筑摩書房)でもその考え方が使われています。日本の高度な知性は文殊型の思考をするのかもしれません。

すると、昔話は? 次回へ。

 

 

 

 

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