日本と世界7(徐福渡来)

前回8代出雲王のときに大事件が起きたと書きました。日本の歴史の根本に関わる重大事件ですが、「正史」にはいっさい記録されていません。中国の史書『史記』に書かれており、中国の歴史で実在が確定されていないものの、昔からさまざまに研究されてきました。わが国のヤマタイ国とヒミコのようですね。

イラストACより)

秦は、紀元前221年に中国史上初めて全国統一を成し遂げると、秦の王は、歴史上最初の「皇帝」に即位し、「始皇帝」と名乗りました。

始皇帝の業績は万里の長城の他、兵馬俑(へいばよう)が有名ですね。始皇帝の墓に、約8000体もの実物大の兵士や馬の陶製模型が収められており、同じ顔は2つとないそうです。生きている人間を道連れにする殉葬が模型に置き換えられるようになったのですが、この模型を作ることは大事業です。

写真ACより)

日本で行われた兵馬俑展にはレプリカが展示されました。

2016年の「始皇帝と大兵馬俑」特別展より(私撮影)

 

(wikipediaより)

さて、このように絶大な権力を手に入れた始皇帝は、最後に意のままにならず残ったもの、すなわち永遠の命(不老不死)を手に入れられるという情報に接しました。徐福(じょふく)という方士(今で言うまじない師)が始皇帝に「東方の三神山を蓬莱といい、仙人が住んでいます。けがれなき童男・童女とともに長生不老の霊薬を求めたいと思います」と具申し、「さよか! ほな、早う行ってこい!!」と始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述があります。右は、日本にある徐福像(和歌山県新宮市徐福公園内)です。

出発地はシャントン(下の地図参照)あたりだそうで、そこから東へ行けば日本しかありません(朝鮮半島は陸続きですし)。蓬莱が日本なら私たちは仙人? そして、日本では、各地に徐福伝説が残っています。徐福が始皇帝をだまくらかして部下や資材をどっさり手に入れ、そのまま日本へトンズラした、と、おおむね考えられていますが、考古学的な証拠は見つかっていません。

下は、不死の妙薬を求めて航海に出る徐福(歌川国芳画)です。出雲の船とは比較にならない大型船だったそうです(出雲の伝承による)。

(wikipediaより)

 

ここまでは、歴史の好きな人にとっては常識にあたるでしょうが、出雲の伝承にははっきり示されています。徐福は、2回日本へ来ています。徐福が日本へ来た目的は、日本の王となるためです。そのための行動により、出雲王国へ大きなダメージを与えたことで、ヤマト朝廷が誕生する動きを生じ、さらに徐福一団が大きく歴史を動かします。出雲族の移住が大規模で日本の人口構成や文化に決定的な影響を与えたと同様、徐福の移住も大規模で、日本の人口構成や文化に決定的な影響を与えました。日本でそれが記録されていない理由は出雲王国が記録されていないのと同じで、現在に続くヤマト王朝とは別王朝だからです。ヤマタイ国にも関連します。

出雲は、中国とはあまり交流がなかったようですが、徐福渡来後、中国との交流が活発になります。中国文化の影響を受け出すのは、徐福以後です。そもそも始皇帝がだまされたのなら、中国の人たちは日本の存在を知らなかったことになります。しかし、北九州では、中国文化の影響が古い時代から見られるので、流れ着いた人びとや戦乱の中国から亡命した人たちはいたでしょう。出雲王国といっても、現在の日本とイコールではありません。国境という概念もなかったでしょう。後にヤマト朝廷が中国に対しておこなった朝貢貿易のようなことは出雲王国はやっていなかったようです。

始皇帝が日本の存在を知らなくても徐福は日本をある程度知っていたことになります。当時の日本は、中国(秦という国家)の影響下にない独立した国(島)だったといえるでしょう。

 

徐福は、紀元前218年に大船団で日本へやってきました。石見へ上陸し、火明(ホアカリ)と称しました。8代出雲王の娘を妻に迎え、長男が生まれ、五十猛(イソタケ)と名づけました。その後、8代出雲王が猪ノ目洞窟で餓死させられ、副王の事代主が粟嶋で餓死させられる事件がありました。犯人は、徐福の部下でした。

下の写真は、王と副王が幽閉された、猪ノ目洞窟(上)と粟嶋(下)です。粟嶋神社のふもとに「静の岩屋」があります。この洞窟です。いずれも、わが家で出雲へ行った時に私が撮影した写真です。

徐福は日本の王になろうとしたがいまくいかず、五十猛を妻にまかせて、秦へ帰国しました。徐福の部下が出雲王と副王を殺害したとあっては、五十猛は出雲にいづらくなり、徐福のメンバーや出雲の人たちをつれて、丹波(今の丹後)へ移住し、指導者となり、香語山(カゴヤマ)と名を改めました。

徐福は秦に帰国したとき、始皇帝に言い訳をしました。大ザメのせいで不老不死の薬が手に入らないので、もっと軍備を与えて欲しいと。始皇帝はそれもまた信じて、「おっしゃー! なんぼでも軍をつけたるいから、もいっかい行ってこい!!」と、徐福を激励しました。今度は童男・童女に加え、軍隊と熟練工をつれて徐福は再度、日本へ。出雲へ行ってはかなわんので、北九州を目指し、有明海にまわって、佐賀県に上陸しました。今度は、徐福は饒速日(ニギハヤヒ)と名乗りました。徐福=ホアカリ=ニギハヤヒです。徐福集団は、合計で5000人が渡来したことになり、日本に大きな影響を与えました。彼らは物部(モノノベ)氏と呼ばれるようになりました。吉野ヶ里を拠点として、強力な勢力を形成していきました。吉野ヶ里遺跡は、徐福の拠点です。

徐福は宗像三姉妹の市杵島姫を妻に迎え、生まれた穂屋姫が、丹後の香語山と結婚しました。香語山は、叔母と結婚したことになります。そして、海村雲(アマノムラクモ)が生まれました。海村雲は、一族を連れて、丹波からヤマトへ移住しました。同じ頃、大阪・三島の出雲族が、天日方奇日方(アマヒカタクシヒカタ)をリーダーとして、ヤマトへ移住しました。

両者は協力してヤマトを治めていくこととなり、海村雲が初代大王に就きました。これが、神武天皇のモデルですが、九州からの東征ではありません。

クシヒカタは、ムラクモと協力関係を結ぶため、妹のタタライスズヒメの婿にムラクモを迎えました。そして、ムラクモの息子(2代大王〈綏靖天皇〉)は、もう一人の妹イスズヨリヒメの婿となりました。

今回書いたことは、大元出版の本にもっと詳しく載っています。徐福、ムラクモ、クシヒカタにまつわる神社が、佐賀県にも出雲にも丹後にも三島にも奈良県葛城市にも、驚くほどたくさんあります。

徐福はそもそも、日本の王になろうとしたのですが、志半ばで、没しました。後を継いだ物部王国は、どう動いたでしょうか。古代史のクライマックスです。次回へ。

 

 

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