日本と世界11(第1次物部東征)

前回第1次出雲戦争について書きました。フトニ大王(第7代孝霊天皇)の吉備王国と出雲王国が激しく戦い、吉備王国が勝利し、出雲王国が弱体化しました。その戦いは、ヤマト進出をねらっていた物部王国(筑紫)にはまたとない好機となりました。

ニギハヤヒ(徐福)から5・6代目にヒコナギサタケ王がおり、その王子にイツセがいました。記紀では、イツセが神武東征のリーダーとして描かれています。イツセが途中で戦死したため、弟のイワレビコが後を継いで東征を完成し、神武天皇として即位したというストーリーです。実際には、神武天皇は架空の人物で、神武東征のモデルである物部東征は2回ありました。記紀に書かれた東征のストーリーはすべてがデタラメではなく、部分的に正しかったり、史実をモデルに話を変えてあったりします。

第1次物部東征のリーダーはイツセです。ヤマトの大王が大軍を連れて出雲と戦争を始めたため、ヤマトは手薄となっています。物部王国にとって敵であるはずの出雲とヤマトが同族争いをしているので、漁夫の利が期待できます。

「倭国大乱」最中の165年ごろ、イツセはヤマトへの遷都を計画し、有明海を出発しました。記紀の神武東征は瀬戸内海を進んだことになっていますが、吉備王国の勢力内を通過することは得策ではなく、四国の南を進みました。

ついに紀伊国上陸作戦の日を迎えました。紀ノ川をさかのぼる予定でしたが、おびただしいヤマト軍が現れました。ヤマト軍のリーダーは大彦です。記紀では長髄彦(ながすねひこ)と書かれ、朝敵扱いですが、大彦は大王の子、つまり王子です。大彦は人望もあり、次の大王候補でした。大彦が皇軍で、物部軍が朝敵ということになるはずですが、大彦の磯城王朝が物部王朝に政権交代するので、勝者が正義、敗者が悪と描かれます。

イツセは大彦軍を避け、紀ノ川での上陸をあきらめ、紀ノ川河口のすぐ南にある名草山に登りました。名草村の戸畔(とべ)(女村長)がゲリラ戦をしかけ、毒矢を射たところ、イツセに命中し、苦悶しながら亡くなりました。その場面、日本書紀にはこうあります。

六月の乙未の朔丁巳に、軍、名草邑に至る。すなわち名草戸畔という者をころす。

史実と逆になっています。名草戸畔は出雲王の子孫を婿に迎え、出雲王家と親戚にあたります。出雲族は母系社会なので、女性が指導者となっていました。ちなみに、物部は中国から来たので、男系社会です。戦闘向きです。

名草戸畔は、日本書紀で軽く触れられているだけですが、名草山付近ではいまも伝承が残っています。あらゆる記録や伝承を調査して名草戸畔についてまとめた本があります。『名草戸畔――古代紀国の女王伝説』(なかひらまい/スタジオ・エム・オー・ジー)は素晴らしい本です。歴史に埋もれている人びとを掘り起こして光を当てる。もちろん、わからないことが多々ありますが、正史が消そうとも、神社、地名、伝承などが痕跡をのこしています。その地で多くの痕跡があれば、史実に近いと考えられるかもしれません。

イツセの死後、弟のウマシマジがリーダーとなります(イワレビコではありません)。神武東征の物語のとおり、紀ノ川を離れ、熊野へ海路、向かいます。記紀では、八咫烏(やたがらす)が道案内してヤマトへ入ることになっています。神話的な表現ですが、おおむね、史実に近いです。

ウマシマジ軍が上陸した熊野には、熊野本宮大社熊野速玉神社が建てられました。熊野本宮大社では素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主祭神にまつり、熊野速玉神社では速玉大神をまつっていますが、この両神はともに徐福のことです。熊野付近(新宮市)には徐福公園があります。もちろん、徐福本人は熊野へ来ていませんが、子孫である物部が熊野へ上陸し、ヤマトへ向かわず残った人たちが熊野に定着していきました。徐福の子孫が上陸した史実を徐福の上陸に変えた、有名人仮託話の1つです。たとえば、弘法大師、役行者の奇跡や徳を伝える伝説が全国にありますが、本人ではなく、弟子が残した足跡です。

さて、紀ノ川で物部軍を撃退した大彦(長髄彦のこと)ですが、物部の軍団を見て、次に戦ったらかなわないと感じたものの、本家の出雲はヒボコや吉備に攻められて援軍を出す余裕がなく、伊賀(三重県伊賀市)に新しい王国をつくろうと考え、ヤマトを去りました。

大彦という有力者がいなくなったヤマトでは、ヤマトを統一できる人物が見あたりません。出雲王家の分家に太田タネヒコがいました。記紀にはオオタタネコと書かれ、三輪山を祀る大神神社の初代神主とされています。太田タネヒコは、大彦去った後にヤマトを統一できるのは熊野の物部勢以外にないと考え、物部をヤマトへ導いて、自分が大王になろうと考えました。記紀に書かれた八咫烏とは、太田タネヒコのことなのです。

物部勢は、太田タネヒコの申し出を受け入れ、山の中をヤマトへ向けて進みました。八咫烏信仰は、中国の信仰がもととなっています。

ヤマトに入った物部勢は、三輪山の南西の鳥見山(とみやま)に登りました。そこは、三輪山の太陽神の遙拝地でした。出雲族は太陽を信仰しており、出雲族の聖地です。現在は、鳥見山の登り口に等彌神社(とみじんじゃ)があります。1736年に境内から、八咫烏の土偶が発掘され、神宝とされています。

等彌神社で発掘された八咫烏の土偶

鳥見山は、標高245mで、山頂付近に霊畤(れいじ)があります。説明板には次のように書かれています。

鳥見山中霊畤について
「日本書紀」によると、この鳥見山付近は、神武天皇が「橿原宮で即位後四年、皇祖天つ神を祭られた」と「霊畤」の由来を記しています。(巻第三)
「霊畤」とは、「まつりのにわ」を意味し大嘗祭を行う場所をいいます。

等彌神社から鳥見山への登り口

山の中腹にある霊畤遙拝所

鳥見山山頂付近の霊畤

ヤマトでは、フトニ大王(第7代孝霊天皇)が兵士を連れて吉備に去った後、人口が減って磯城王朝は衰えました。そこへ物部勢が入って来たので、出雲族の一部はヤマトから逃げ出しました。

フトニ大王が去った後、ヤマトで大王になったのは、クニクル(第8代孝元天皇)でした。クニクル大王は、物部勢力と妥協し、物部氏の娘、ウツシコメを妃として迎え、ヤマトの争乱を収めようとしました。

ここから、ヒミコの舞台へと移ります。それは次回に。

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