日本と世界10(第1次出雲戦争 後編)

前回、吉備王国が東出雲王国を激しく攻めた後、休戦となったことまでお話ししました。

東出雲王国は、銅剣を出雲王国領の豪族に配るのをやめて、吉備王国に差し出す方針を決めました。しかし、全部を渡すのではなく、一部は神に守ってもらうために地下にかくすことにし、残りもそのままの形ではなく融かして青銅のインゴット(金属塊)の形にして渡すことにしました

銅剣の復元レプリカ(島根県立古代出雲歴史博物館)

出雲族は、母系社会であり、力による支配ではなくネットワークによる統治をしてきました。戦争はあまりなく、戦争慣れしていませんでした。ヤマトでは覇権争いが勃発し、戦争慣れがありました。武力に屈したときにとった対応は、祈りでした。出雲の神は、インド由来の神と、先祖です。インド由来の神は、象、蛇がモチーフになり、鼻の長いサルタヒコや天狗、蛇は竜神になりました。先祖を守り神と見なす信仰は、現在の日本では仏教で見られます。インド発の仏教は先祖崇拝が中心ではありません。仏教が日本へ渡ってくると、日本独自の仏教へと進化していきました。なぜそのような進化をしたかというと、出雲の信仰観がベースにあったからではないかと考えています。現在のご先祖様に守っていただこうという宗教観でみると、出雲の行動が理解しやすくなるのではないかと思います。

東出雲王国は、神庭斎谷(かんばさいだに)(現在の荒神谷遺跡、下の地図参照)に、358本の銅剣をていねいに並べて埋納しました。そのうち、王家所有の344本には、王家のシンボルである×印を刻みました。1983年に遺跡調査が行われて多量の銅剣が発掘されたときには衝撃が走りました。それ以前に日本国内の各地で見つかっていた銅剣の合計数を上回る数の銅剣が、1カ所で見つかったからです。「神話の出雲」が「実在の出雲」となりました。ただ、現在でも、出雲の伝承は歴史学では認知せず、どんな勢力がどんないきさつで埋納したか、×印は何の意味かが謎とされています。

東出雲王国はこの埋納を秘密にし、それ以外の青銅のインゴットを吉備に引き渡しました。1800年ほど経て、東出雲王国の財宝がよみがえったのです。

 

 

 

荒神谷遺跡の発掘現場は見学できます

荒神谷遺跡の発掘現場。左は銅剣、右は銅鐸と銅矛の発掘時のレプリカ

荒神谷遺跡でみつかった358本の銅剣

荒神谷遺跡で見つかった銅鐸と銅矛

荒神谷博物館の展示パネル

荒神谷遺跡のジオラマ。銅剣製造のようす

フトニ大王は、東出雲王国との戦いの後、孝霊山にて余生を過ごしましたが、王子の大キビツ彦と若タケキビツ彦は、これで終戦とせず、軍勢をまとめて、出雲南部戦線に移りました。奥出雲(上の地図参照)は、和国内で最も良質な砂鉄の産地で、古代の野ダタラ精錬に適していました。吉備は、鉄を手に入れようとしたのです。

奥出雲は、古代から現在にいたるまで、タタラ製鉄の中心地でした。製鉄の神を祀る金屋子神社の本家本元は、奥出雲にあります奥出雲たたらと刀剣館では、タタラ製鉄の歴史を展示しています。

製鉄の神を祀る金屋子神社

奥出雲たたらと刀剣館の展示。タタラによって得られる粗鋼

奥出雲にて、吉備軍は西出雲王国軍と激しい戦いになり、双方に大きな犠牲が出ましたが、吉備は軍を増強して優勢となり、西出雲王国へ迫る勢いとなりました。西出雲王国も降伏を決意し、大事な銅鐸を埋納し、銅剣の方を融かして青銅のインゴットとして吉備に差し出すことにしました神原の郷の岩倉(現在の加茂岩倉遺跡、上の地図参照)に39個の銅鐸を埋納しました。王家の銅鐸には、王家の印である×を刻みました

1996年に加茂岩倉遺跡が発見され、1カ所で国内最多となる39個の銅鐸が見つかりました。荒神谷遺跡からわずか3.4kmの距離にあり、非常に多くの青銅器が埋納されていることや、×印があることなど、共通点が指摘されていますが、やはり、どんな勢力がどんないきさつで埋納したか、×印は何の意味かが謎とされています。

下は、加茂岩倉遺跡の発掘現場の発掘時の復元レプリカです。

 

吉備もたいへんな犠牲を出し、兵士たちに厭戦気分がただよっていたため、インゴッドを手に入れて満足し、奥出雲を占領することなく、吉備へ引き上げました。

古事記に書かれた八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説は、ここ、奥出雲を表しています。奥出雲を流れる斐伊川には8本の支流があり、オロチは出雲族にたとえられています。オロチの尾から太刀が出てくるのは、そこが砂鉄の大産地であることを示しています。

天が淵(斐伊川の上流にあり、ヤマタノオロチが住んでいたところといわれています)

これで、第1次出雲戦争は終結しました。このあと、出雲王国と吉備王国は平和に友好関係を保ちます。

出雲王国では、銅鐸祭祀をやめて、王の墳墓を積極的につくることになりました外敵の進入路を先祖霊に守ってもらうという考えです。出雲王国の墳墓は、四隅突出型と呼ばれる、コタツのようなユニークな形をしています。これは、正方形と×の組み合わせで、出雲の信仰からきています。

西出雲王国は、西谷墳墓史跡公園に、東出雲王国は、古代出雲王陵の丘に、それぞれ墳墓を築きました。(上の地図参照)

墳墓のジオラマ(出雲弥生の森博物館)

墳墓のジオラマ(出雲弥生の森博物館)

西谷墳墓、突出部をのぼる

西谷墳墓、1基の全景

西谷墳墓、上の平らな部分へのぼる

西谷墳墓、墳墓内にある展示室。被葬者の復元映像

王陵の丘。墳墓自体が山になっていて、見晴らしがいい

王陵の丘。山の上に墳墓がある

王陵の丘。この山道が墳墓

第1次出雲戦争で、出雲王国は大きなダメージを受けました。これまで平和にやってきたのに、戦乱の時代に入ってしまいました。そのとき出雲王国がとった道は、軍備増強でなく、祈りでした。銅剣・銅鐸の埋納と、墳墓。現在でいうなら、お札と仏壇でしょうか。現在の日本人も、このような信仰の仕方は違和感がないかもしれません。

さて、次回は、倭国大乱の第3ステージ、第1次物部東征です。

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