[本を書いた09]教育で実学優先の流れ、文学や古典は不要?

とくに小中学校の義務教育において、人文社会系の科目(なかでも、文学、古文、漢文、歴史、倫理など)は役に立たないので削減し、情報通信、遺伝子、金融などの役に立つ「実学」を増やすべきだという議論が強くあります。

実学重視を言い出したのはたぶん明治初期の福沢諭吉『学問ノススメ』で、戦前の富国強兵時代、戦争中は理工系優先でした。戦後は何が間違っていたのかと振り返るのに人文社会系が頑張りましたが、高度経済成長、バブル経済あたりでまたまた理工系が優勢となり、失われた30年時代には国力を盛り返すために理数系に重点を置かなければいけないという主張が強くなり、2010年代には「文系学部縮小・廃止論」まででてきました。

 

わが家は人文社会系を軽視しない

私は京都大学文学部の卒業生です。しかも、なんの役にも立たない「国語学国文学」専攻でした。「なんで文学部?それも国文?」と、高校時代、大学時代、卒業後までずいぶん不思議がられました。私からすると、なにが不思議なのか、さっぱりワケワカメなんですけど! (`ヘ´)

私は高校時代、数学が最も得意科目で強力な得点源でした。物理、化学もつづく得意科目でした。成績的には理系ですが、志願して文学部の、それもよりによって国文に進んだのです。

1996年にパソコンを買い、だれも教えてくれない中、試行錯誤で使っていました。いち早くインターネットに接続し、1996年6月にウェブサイト(ホームページ)を作成しました。SNSもブログもgoogleもAmazonもない時代です。日本語のウェブサイトが3000ぐらいしかなくて、ホームページ作成ツールなどなく、タグをすべて手打ちしました。身のまわりでインターネットをしている人を探すのが困難でした。

出会い系サイトもマッチングアプリも婚活サイトも何もない時代、1996年にネットで出会ったナナと1999年に結婚。インターネット黎明期のネット婚です。その後も、パソコンやインターネットなしでは生きられないという生活をしてきました。

本書を読んで下さった方はもうご存知でしょうが、うちの子たちは完全独学で完全ホームスクーリングをする過程、紙の参考書を使い、パソコンやインターネットは勉強では使っていません。子どもたち、それぞれ3歳から1人1台、自分専用のパソコンをもっていて、親の監視や制限なく自由に使っているのに。子どもたちが選択したんですよ。デジタルより紙の方が効率いいし、よくわかるって。

わが家で人文社会系を重視していることも本書で明らかにしています。正確に言うと、重視ではなく、すべての科目をバランス良くなのですが、世間で人文社会系があっちへ追いやられ気味なので、バランスをとることは人文社会系重視になってしまいます。

 

実学が大事ならなおのこと非実学を

実学、というのは現在では情報通信、金融、遺伝子をいうようで、ようするに最もお金を稼ぎやすい、そして経済界からニーズのある分野のことです。

このような分野がどうでもいいなんて、そんなことはないですよ。とても大事です。ただ、このような大切な最先端の技術を義務教育で教えることは慎重に考えた方がいい。最先端の旬の技術だからこそ、数年もたたないうちにどんどん進化し変容していくでしょう。たとえば中学生がこのような技術を学んだら、大学を卒業するころには学んだ内容がすでに過去のものになっていたり、廃止されていたりするかもしれません。「かもしれません」じゃなくて、10年も20年も変わらず通用するなんてあり得ないじゃないですか。

すると、大事なのは、最先端を学ぶことではなくて、どんなことでも理解し、どんな変化も対応できるような、原理原則土台を形成することではないかと思います。

たとえば、クレジットカードを正しく使えるよう中学生のうちから教えよう、という意見もあります。多くの人がクレジットカードを日常的に使うようになったのは、ここ10年、最大でもここ20年程度でしょう。今、クレジットカードを教えたとします。20歳を過ぎて自分がじっさいにクレジットカードを使うようになるのが6年後ぐらい、そのころにはクレジットカードの仕組みが変わっていたり、クレジットカードが衰退して電子マネーに置き換わっていたりするかもしれません。電子マネーを今、教えたとしても同じことがおきます。

自分に可能な限界内でお金を使っていれば問題はおきません。ほしいものを全部手に入れることはできないので、優先順位やら、欲望のコントロールが必要です。お金に振り回されて人間関係を悪化させたり、本当に大事なものを見失ってしまったり。こういうことは、人類が太古の昔から繰り返してきました。ぜんぶ、古典に答えがあります。

三角関数やら微分積分やら、何の役に立つのだ?という意見もあります。物事の仕組みを理解する力として役に立ちます。どんな科目のどんな内容もそうです。直接役に立つかどうか、ではなく、世の中がどう変わろうと、どんな技術が出てこようと、そのときどきでそれらを理解し役立てていくために役立つのです。直接役に立つことだけを子どもに教えるなら、世の中の変化についていけなくなってしまうのでは? それはおそろしいことです。

 

英語は勉強せんでもいい? まさか!

AI翻訳がどんどん進化しているので、時間をかけて英語を勉強するのは無駄だ。という意見もあります。

すごい暴論ですね。私は暴論以外の何ものでもないと思いますよ。

表面的にはAIで間に合う部分が拡大していくでしょう。でも、言語を学ぶってそれだけのものかしら? 言語は思考を作ります。言語なしに思考することはできません。言語が変われば思考も変わります。他言語を文法体系、単語からじっくり学ぶことは、新たな思考を形成することでもあり、文化の多様性を身体で理解することでもあります。

教育とは、人間形成ではなかったかしら? いつからロボット形成になったのかしら?

 

これからの時代、人間では?

うちの子たちは、それぞれが大学で人文社会系の学問をやりたいと志願しています。べつに親がそうしろと言ったわけではありません。理数系であろうと、好きなことをやればいいんですが。

自然とそうなったのには、じつは理由があります。

情報通信、金融、遺伝子が極端に進化すると、難問が浮き彫りになってきます。すでになりつつあるのですが、まだ意識していない人が多いでしょう。

たとえば、AIが私がすべきことをすべて教えてくれるなら? 進学先、就職先、結婚相手、だれと交流するか、何を買うか、健康をどうするか、何を趣味にするか、どんな情報を見るべきか、どの政党に投票すべきか、・・・

異常だと思いませんか?

ジョージ・オーウェル『1984年』のディストピアそのものではありませんか。金融により、格差が拡大し、人類の分断が進んでいます。勝ち組か、負け組か。これ以上進めば、負け組は尊厳が失われ、奴隷状態にならざるを得ません。遺伝子もそうです。あまりやり過ぎると、人間が生物かどうかさえあやしくなっていくでしょう。自然からかけ離れた食糧を食べることになるでしょう。

私たちは人間です。「人間とは何か」がすべての人にとって大問題なのです。これまで、どんな偉大な哲学者が考えてきたよりも。

 

ホームスクーリングでよかったとホッとする

実学重視の教育論は冷酷な人間軽視に見えます。

わが家はホームスクーリングなので、このような議論とは無縁でした。ホームスクーリングを推奨することはないのですが、「ホームスクーリングで、あ~よかった~!」と今さらながらに安堵しています。

 

(続きは次のページへ)

 

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