大学受験4 リベラルアーツ

進路希望

前回、2人の挑戦が始まったことまで書きました。進路は文系か理系か、どの学部か、ってことですが、ナツは明確で、ハルは漠然としています。ナツが言うには、ホームスクーリングをやって来た経験を世の中へ還元したいとのことで、教育学部を志望しています。先生になると、1つのクラスでの影響にとどまるので、もっと大きく、仕組みを考えられるような研究をしたいとのことです。ハルも、なにかしら世の中に大きな貢献をしたいとのことですが、それが何なのかははっきりしません。人間に関する何か、とのことです。つまり、2人とも文系です。

理系人気?

21世紀初めごろからだと思いますが、政府が理系を重点的に強化し、文系は縮小へ、とくにお金にならない文学部はいらないとでもいうような方向へ舵を切り、研究者たちからは反発も出ています。お金になる研究を重視するということは、理系でも基礎研究がおろそかにされるということで、これへの弊害は至るところで警鐘が鳴らされています。

昨年来のコロナ禍では、とくに理系志望が増えているそうです。コロナ以前から、AIを中心としたICT、遺伝子関連は今後の重点産業で、国が力を入れてきましたが、両分野とも、コロナ禍でなお需要が加速しています。

ただ、その一方で、難関大学は意外と文系が強いです。文学部が凋落しているかというと、そうでもないようです。このへんの受験生の思惑は軽々には想像しがたいです。

リベラルアーツ

最近は「文理融合」というキーワードもよく見かけます。その一方、1991年以降、大学の1・2年生時の教養課程が廃止や縮小に向かう動きがあり、それがまた教養課程が復活しつつあるようなながれもあります。

日本の大学の教養課程は、『大学は何処へ―未来への設計―』(吉見俊哉/岩波新書)によると、戦後改革における「ボタンの掛け違い」をひきずっているとのこと。1949年、旧制高校と旧制大学が合体して、新制大学として発足した時に、旧制高校の教員を中心に構成された教養課程、旧制大学の教員が担う専門課程という体制がとられました。その時、東京帝国大学最後の総長であり、同時に東京大学最初の総長であった南原繁さんは、帝国大学の学知タテ割りに疑問を感じており、本来、大学という理念を実現するためには横断的なリベラルアーツが不可欠と確信していたにもかかわらず、文部省や他の教員がそれを理解せず、中途半端な仕組みとなってしまったとのことです。

リベラルアーツも、最近よく聞く言葉です。『世界大百科事典』(平凡社)の「自由七科」の解説をまとめると、こうなります。

ヨーロッパの中世大学における科目群をいい、英語ではリベラル・アーツ。古代ギリシアに始まり、ローマ末期の4~5世紀に7つの科目に限定された。言語に関する3科(文法、修辞学、論理学)と、数に関連した4科(算術、幾何、音楽、天文学)に区分される。科目の内容は多様性に富み、今日の用語で思いうかべるものより広い。近代に至るまで西欧の知的エリートの教養のあり方を支配した。第1次大戦以後,学問の専門細分化と実利追従への批判としてあらわれた一般教育の理念は、この自由学芸の伝統を継承しつつ自然科学,社会科学をも新たな教養として積極的に位置づけようとしたものである。

ボタンの掛け違いとは、ようするに、教養というものが「いろんな知の寄せ集め」なのか「専門知を横断する知」なのか、ということと受け止められます。つまり、知の集合なのか、総合化からメタ知へ向かうものなのか、ということです。もひとつ言い換えると、「いろんなことを広く知っている」のか、「様々な知見を集めて、うんと考えて新しい知見を生み出すのか」です。

世の中が複雑になり、1つの分野では解決が見通せないテーマがふえているので、リベラルアーツが強く求められるようになってきたと思います。長くなったので、続きは次回に。

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