独学で勉強するために 10(書き写し2)

前回からの続き。

勉強の土台作りは読み書きです。「書くこと」を身につけるのは、「書き写し」が最も効果的です。「書き写し」は「視写」とも言われます。

日本では、視写は国語教育で広く行われてきました。明治以降、学校教育で実践されてきたことが資料にうかがえ、戦後は学習指導要領(小学校)に記載され続けてきました。そのことは、『21世紀型授業づくり90 国語力を高める視写・聴写・暗写の指導』(巳野欣一・柳瀬眞子/明治図書)に詳しいです。

ところが、平成10(1998)年版からは視写が削除され、現在の学習指導要領にも見られません。20世紀には重視されてきた視写が、21世紀には重視されなくなったということです。これは、たいへん重大な事件だと思いますが、そのように騒ぐ人はちょっと見かけません。この本は、それを「えらいこっちゃ!」と騒いでいる貴重な存在ですが、残念ながら、絶版で、古本としても入手困難です。

視写が削除されたのは、ゆとり教育推進のため、授業時間と授業内容が大幅削減されたことによるようです。私は、ゆとり教育の方向性は悪くないと思っています。ただ、授業内容を削減して生じたゆとりをどこへ回したのか、が問題です。ゆとり教育の期待とは裏腹に、「ゆとり」を塾へ回し、受験が過熱していったのは、皮肉なことです。さらに、そのことが学力低下をもたらしたのも、皮肉なことです。学力低下はゆとり教育が原因だと考える人が多いようですが、そうであるなら、学力低下は塾に行けない子に限られるでしょうし、現在はゆとり教育路線が修正されているので、学力低下は消滅したはずです。私は、土台作りの軽視が学力低下を招いたと見ています。

この「ゆとり」を、勉強の土台作りへ回していれば、今ごろ子どもたちの学力は、20世紀の子どもたちよりも向上していたでしょう。(それを検証する方法はありませんが)

『読み書き』の能力が低下すると、大学教育も危機に瀕します。

大学で視写を実践される先生もいらっしゃいます。『シリーズ『大学の授業実践』3 視写の教育――〈からだ〉に読み書きさせる』(池田久美子/東信堂)は、迫力あります。サブタイトルの「〈からだ〉に読み書きさせる」が視写の神髄を語っています。もちろんこれは著者の教育観ですが、私も賛成します。

コンピュータやスマホ全盛のこの時代になぜ、手書きなのか。

学生に楽をさせないためである。

そして

手書きは時間と労力がかかる。能率が悪い。しかし、能率が悪いがゆえに、考え迷う時間がある。

視写は「体育」であると、著者は言います。

字は濃く書け。一定の濃さで書け。マス目いっぱいに大きく書け。マス目からはみ出さずに書け。真直ぐに書け。楷書で書け。

私も、同じことを子どもたちに要求しました(書き写しを始めた小学1年生ごろから)。

著者は、多量に書くことに意味があるとします。生徒(大学生)たちに、3カ月で110枚、書かせました。5枚以上書いたことがないという学生たちは、大きな自信を持ちました。

「日本語表現」の授業を受ける資格と正当な理由が自分にはあるのだ。

と。そして、書くことが苦にならず、楽しさを感じるようになりました。すばらしいですね。これぞ、視写!

わが家の4人の子は、それを毎日続けています。それぞれ2000~6000枚以上になるでしょう。書くことはまったく苦になりません。

ところで、書き写しには、国語教育を越える、もっともっと深い意味があると考えています。終点はなく、究めることもありません。

次回へつづく。

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