アフターコロナ 10(書く)

前回、「昔話などの口承文芸を、たくさんたくさん、読み続けることが構造化のスキルをはぐくむ」と書きました。コロナingでITツールの利用が促進され、アフターコロナでもおそらくそれが定着し、人工知能の進化でさらに高度に求められることが予想できます。であればこそ、身体(脳も)をしっかり使わなければ、人間は尊厳を失っていくでしょう。自分で出来ることがどんどん小さくなり、ITに使われる存在となっていくでしょう。

「紙の本(電子書籍ではなく)を読む」行為は、身体の活用にほかなりません。ITツールを使い慣れると、本を読むことは、ストレスに感じるかも知れません。そのストレスこそが、身体を使うことそのものです。口承文芸は、情報ではなく、身体が伝えてきた「生身の人間」そのものです。口承文芸を読み続けることは、人間を育て、人間を鍛え、人間を高めます

「読み書き」のもう片方、「書く」ことは、さらに身体を使います。横着しないためにも、鉛筆と原稿用紙を使いましょう。めんどくさいって? めんどくさいからこそ、いいのです。身体を使うことは、めんどくさいことなのです。

書き写し(視写)の仕方は、「独学で勉強するために 9(書き写し)」にも書きました。心を無にして、お手本をていねいに書き写す。心を無にするなんて、そうそうできるものではありませんが、書き写す目的とか文の意味とか、考えなくてもいいということです。もちろん、関係ないことを考えながら書き写すのもダメです。書き写しをするのは、文章の上達もありますが、それはささいな目的で、人間を育て、鍛え、高めることこそが、目的です。それによって、人間の力、つまり体系化の力を養います。体系化とは、全体を見渡して個別の関係を構築するといった能力のことで、システム思考とは全く異なります。

システム的なメソッドで涵養できるスキルは、おおむね、コンピュータにもできるはずです。そういったスキルのみを追求していると、人工知能の後塵を拝することにしかなりません。人間は、人工知能をじょうずに活用して、より良い世の中を築き、より良い人生を生きていくべきです。

書き写しの対象としては、口承文芸よりも、書かれた作品の方が良いでしょう。学校の教科書もいいでしょう。できることなら、すぐれた文学作品がいいです。海外文学は、翻訳者の文章なので、よほどすぐれた翻訳者の作品でない限り、書き写しの対象にはあまり適しません。すぐれた文学作品とは、明治から戦前あたりの文豪を念頭に置いた表現です。

100年ほど前の時代なので、日本語としては古いです。現在ではほぼ使わない表現や言葉や漢字がいっぱい出てきます。そんな古い日本語を練習して何になるのだ?という疑問があるかもしれません。まったくノー・プロブレムです。教養とか知性とかいうものは、古いものにこそ、あります。(最近は保守という言葉がおかしくなっていますが、それこそが保守ではないでしょうか?)

コンピュータには知性も教養も扱えません。コンピュータにできるのは、知識と情報、その分析です。知性も教養も、身体が必要です。

次回は、「教育のゆくえ」です。

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