日本と世界2(日本語で科学する)

前回、「無限に多様としての1つ」といいました。

『日本語の科学が世界を変える』(松尾義之/筑摩書房)という本があります。著者は、第一線で科学翻訳を手がけてこられた方です。

日本人は、日本語で科学している。実はこの話を持ち出すと、科学者を含め、たいがいの人から「何のことですか?」と言われてしまう。

という書き出しで始まります。私も「何のことですか?」のたぐいでした。日本人にとってあまりに当たり前すぎて、何とも思わないのです。けれども、自国語で科学を含め学問ができるという国はあまりないそうで、日本はたぐいまれなケースになるようです。当事者にはピンときませんが。ノーベル賞の益川敏英博士のコメントもあります。

ノーベル物理学賞をもらった後、招かれて旅した中国と韓国で発見がありました。彼らは「どうやったらノーベル賞が取れるか」を真剣に考えていた。国力にそう違いはないはずの日本が次々と取るのはなぜか、と。その答えが、日本語で最先端のところまで勉強できるからではないか、というのです。自国語で深く考えることができるのはすごいことだ、と。

彼らは英語のテキストに頼らざるを得ない。なまじ英語ができるから、国を出て行く研究者も後を絶たない。日本語で十分に間に合うこの国はアジアでは珍しい存在なんだ、と知ったのです。

グローバルの時代には英語は必須で、幼い頃からどんどん(日本語を差し置いてでも)勉強しなければ世界から取り残されてしまう、と日本人は恐怖に駆りたてられているようですが、最先端の専門家は、それに異議を唱えます。英語は必要ではあっても十分ではなく、最も重要なのは日本語による思考なのだ、とのことです。言葉は文化を土台にしており、言葉の違いは文化の違いであり、世界観の違いです。

日本語による素晴らしい発想や考え方や表現は、英語が持ちえない新しい世界観を開いていく可能性が高い。

それがなぜ大事なことかというと、本書で

人間思考の歴史においては、最も実りの豊かな発展は、二つの方向を異にする思想が出会う点で起こりがちである。

という、量子力学の創始者ウェルナー・ハイゼンベルクの言葉を紹介しています。英語がどうでもいいとか、英語より日本語がすぐれているとか、そんな話ではありません。世界中の大部分が英語で科学しているので、独創性や広がりが生まれにくくなっている、その壁を日本語の科学が越えていける可能性がある(実際にあちこちで超えています)というのです。

科学だけでなく、どんなジャンルの学問でも、同じことが言えます。私たちが日常使っている言葉の多くは、明治以降に欧米の言葉を翻訳してできたものです。それまではその言葉がなかった、ということは、その概念がなかったということにもなります。わが国の先人たちは、新しい概念に出会うと、それを日本人が自由に扱えるよう、言葉を作ってきました。

どこで見たか忘れましたが、「魔法の正体とは名前をつけることである。名前を付けることで、そのもの(こと)を扱えるようになる。名前を付けなければ、扱いようがない」との指摘に、なるほどと思ったことがあります。それで思い出すのは、『甘えの構造』(土居健郎/弘文堂)です。日本語の「甘え」に対応する適切な外国語はなく、甘えは外国の文化ではみられない日本的特徴であると言います。すると、他国では甘えという概念を扱えないことになり、日本ではあたりまえに了解できることがらが、他国では了解不能であったり、著しく困難であったりします。逆に、日本語にない言葉であれば、日本人が扱うことはできないのですが、そういうとき、わが国では随時言葉をつくってきました。

明治以降、日本では、欧米に追いつくために、日本語を廃止し、英語を公用語とすべきだとか、漢字を廃止し、ローマ字書きにすべきだなどという議論が繰り返されてきました。漢字も先人が残してくれた素晴らしい財産であり、未来に大いなる可能性を拓く資産であると思います。「暴論」が排除された理由の1つが日本語ワープロだったそうです。ITで日本語(漢字)を支障なく扱えるなら、廃止するメリットは小さくなりますから。それも日本人による発明であり、私たちの先輩が日本語を守ってくれたのです。

世界中が英語を使い、英語で思考するなら、一様な1つに近づくこととなり、熾烈な競争、弱肉強食、様々な格差が拡大していくでしょう。そのわりに、世界の困難な諸問題は袋小路に入り、生きづらい世の中となるでしょう。グローバルな時代だからこそ、私たちの言葉、文化を今まで以上に大切にし、修得することに全力を傾けるべきです。次回は、日本語です。

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