日本と世界6(出雲王国)
前回、4000年前(紀元前2000年ごろ)にドラヴィダ族が日本へ数千人規模で移住し、出雲に定着したと書きました。現在なら数千人は微々たる数です(野球場ひとつでもその数倍は入ります)が、当時の日本には大規模移住でした。古代の人口は確定的なデータはありませんが、当時の生活を復元するなどして学問的な方法で推計が可能です。歴史人口学の権威、速水融さんの『歴史人口学の世界』では、紀元前400年ごろの日本の人口を10万人程度と推計しています。そのころは出雲王国の盛んな時期なので、ドラヴィダ族移住前の人口はもっと少なかったでしょう。紀元前2000年ごろの日本は1~5万人程度だったとしましょう。数千人の移住は、日本全人口の10~70%にも相当します。現在の日本で言えば、数千万人規模です。当時の中国は、黄河文明から夏王朝(最初の王朝)成立あたりに相当します。
ドラヴィダ族移住は重大なできごとで、日本の正史に記録すべきなのですが、全く記録がありません。忘れられたのではなく、正史から抹殺されたのです。陰謀論みたいですが、古事記・日本書紀成立時にそれ以外の記録が抹殺されたことは、ちゃんと記録されています。記紀の目的は天皇家万世一系の正当化ですから、万世一系が虚構であるなら、史実は隠されたことになります。歴史学者で万世一系を史実だと考える人はあまりいないでしょう。歴史は常に、勝者が勝者の都合で作ります。日本の古代史でいうと、勝者は記紀成立時(飛鳥時代)のヤマト朝廷で、敗者はそれ以前の王朝や王国ということになります。天孫降臨を史実だと考えるのでないなら、ヤマト朝廷の前は記録から抹消されていることになります。
出雲王国は、ヤマト朝廷の前であり、ヤマト朝廷を成立させながらもヤマト朝廷から排除されたので、記録はありません。とはいえ、出雲国風土記や各地の伝承・伝説、古い神社の由緒や祭神などに痕跡をとどめています。出雲の加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の圧倒的な量の銅鐸・銅剣の出土は、考古学的な証拠でもあります。古事記の神話部分の4割が出雲の記事です。出雲が国譲りをして以降、九州南部へ天孫降臨があり、その子孫(イワレビコ)がヤマトへ東征して神武天皇として即位し、ヤマト朝廷が始まった、という流れです。天孫降臨から話を始めればよさそうなものなのに、えんえんと出雲の記事が書かれます。
下の写真は、加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡から出土した銅剣と銅鐸の展示です(島根県立古代出雲歴史博物館)。これほどの出土物を前にしてもなお、出雲王国の存在を受け入れないのは難しいのでは?
当時、出雲王国のことはふつうに周知の事実だったのですが、持統天皇と藤原不比等が「正史」作成時に、出雲の歴史を排除し、万世一系を虚構したということです。古事記の作者(稗田阿礼=柿本人麻呂〈出雲の伝承による〉)は「正史」に正史を書くことを禁じられ、神話の形でならOKと許可が出たので、神話の形で史実をぼかしたり曲げたりしながら織り込んだ、とのことです。そして、政権は、古事記を草稿として扱い、古事記をベースに日本書紀を仕上げ、古事記を廃棄することを命じました(こっそりと温存されましたが)。日本書紀にはわずかしか出雲神話が記述されていません。そして、正史に違背する歴史を残すことを禁じました。神話としてでてくる神の名は、大部分が実在の人物です。ただ、相関関係や時代は史実通りではありません。神社の祭神を見ると、歴史が見えてくることもあります。
出雲は歴史から抹殺されたので、出雲の歴史はあってはならないことになります。書物でもっていれば、命があぶないです。そこで、出雲王家の子孫は、代々、厳密な方法で、口伝により、〈正史〉を伝えてきました。このような口伝の正史は、出雲王家だけではなく、いくつかの古代の有力な家系で同じく口伝されてきました。大元出版では、他の口伝とも照合したところ、見事に一致した、とのことです。
ドラヴィダ族の移住が紀元前2000年ごろで、その後、出雲を中心に出雲族が増えて繁栄し、王国を作ろうという気運になって、紀元前660年ごろ、出雲王国ができました。「王国」という言葉のイメージは、権力をもった王が力で支配する形態でしょうが、出雲王国はドラヴィダ族と同じく母系社会であり、「いばる王」ではなく、「面倒を見る王」のような感じです。古事記に書かれた大国主の国づくりのイメージが近いようです。ちなみに、古事記に書かれた大国主は、第8代出雲王、八千矛(やちほこ)のことです。出雲王は17代続きました。その17人の王の名がすべて、古事記に記されています。
6~8代目あたりが出雲王国の絶頂期でした。新潟から福岡にかけてが出雲王国の範囲でした。力による統治ではなく、今風に言えば、ネットワーク型の機構でした。軍はあっても戦争はほとんどなく、平和な世の中でした。考古学的な発掘でも、縄文時代には戦争の痕跡がほとんどなく、弥生時代になってから急増します。(次回以降に詳しく)
下は、島根県立古代出雲歴史博物館に展示されているジオラマです。古代出雲の陶器作りの様子を再現しています。
福岡県に宗像大社(むなかたたいしゃ)があります。祭神は、沖津宮は田心姫(たごりひめ)神、中津宮は湍津姫(たぎつひめ)神、辺津宮は市杵島姫(いちきしまひめ)神であり、宗像三女神、また宗像大神とも呼ばれます。市杵島姫命は、後代には弁天さんとして日本各地で祀られるようになりました。ところで、この三神は実在の三姉妹です。6代目出雲王の息子が宗像家を起こし、その娘が三姉妹なのです。この三姉妹は出雲王家と結婚したり、徐福(次回に詳しく)と結婚したりして、非常に重要な役目を演じます。とくに、湍津姫(たぎつひめ)神(多岐津姫)は8代出雲王と結婚し、その娘、高照姫は徐福と結婚して生まれた息子の息子がヤマト朝廷を開きます(神武天皇のモデル)。
神武天皇は架空の人物ですが、そのモデル(初代大王)は実在し、海村雲(あまのむらくも)といいます。その父親は香語山(カゴヤマ)で、村雲が父を祀ったのが天香具山(あまのかぐやま)です。歴史学者は、2代天皇~9代天皇を実在しない欠史八代としています。しかし、記紀の通り、実在します(名前、相関など正しい)。事蹟が記録されていないのは、王朝が異なるからであり、万世一系でないからです。古代天皇の寿命が長すぎるという批判は、出雲族の年齢の数え方が異なるからです。春と秋に年をとります。つまり、年齢が現在の数え方の2倍になるのです。
出雲王8代目には、重大な事件があり、大きな転機を迎えます。それは次回に。