日本と世界9(第1次出雲戦争 前編)
前回、2世紀の倭国大乱について書きました。倭国大乱はいずれもヤマトがからむものですが、当時のヤマトは、出雲王国の連合体のようなもので、ヤマトの中心は出雲族でした。
出雲族が日本へ来たのが紀元前2000年ごろで、出雲王国ができたのが紀元前660年ごろです。日本書紀によると、神武天皇は辛酉年1月1日に橿原宮に初代天皇として即位したことになっており、ちょうどこれが紀元前660年に相当します。出雲王国の記録を正史に残すことは許されませんでしたが、神武天皇に仮託して出雲王国建国を記録したようです。神武天皇は架空の天皇ですし、初代大王である海村雲(あまのむらくも)が即位したのは紀元前2世紀頃です。ちなみに、村雲大王の名は『宋史』「外国伝」にも記載されています。村雲が初代大王に就任時、祝いとして出雲王が出雲型の銅剣を記念に贈り、「村雲ノ剣」と呼ばれました。剣は後に村雲の後裔である尾張家に渡り、熱田神宮に収められました。後に「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれる剣です。
当初は出雲王国とヤマトは友好関係にありました。
出雲王国は、東出雲王国と西出雲王国からなり、両王家は友好関係にありました。17代にわたる出雲王は、両王家から交互に王を立て、王でないほうは副王を出すというしきたりでした。東出雲王国の王宮は現在の神魂神社(かもすじんじゃ)、西出雲王国の王宮は現在の智伊神社(ちいじんじゃ)でした。主王を大名持(おおなもち)、副王を少名彦(すくなひこ)といいます。これは、個人名ではなく、役職名です。記紀には、大名持=大国主として個人名のように扱われています。少名彦も大国主といっしょに国造りをした個人名のように扱われています。
神魂神社は、出雲王国当時の王宮の形をそのままとどめていると伝えられています。神魂神社の奥には、立正大学湘南高校があります。高校の敷地内に、「出雲大神」が祀られています。江戸時代に、松江城主が城に使う材木を探しに来て、ここへ立ち入ったところ、顔色が変わり、そのまま亡くなってしまったそうです。昭和36年に湘南高校が設立されました。ここで遊んでいた高校生にケガが相次ぎました。大神神社の宮司さんに「古代出雲の磐座(いわくら)ではないか」と指摘され、高校として丁重にお祀りし、参道や拝殿を整備したそうです。現在も、きれいに清掃され、大切に祀られています。大きな岩を祀る磐座(いわくら)は、国内各地に見られますが、いずれもかなり古い時代のものです。磐座を祀るのは、出雲族の文化です。ところで、ここの磐座、じつは、東出雲王国の王墓なのです。王宮の裏手に当たる山すそに王墓を祀っていたのです。2000年近くの間、そのままとどめられてきました。弥生時代の空間そのままです。
150年ごろ、ヒボコの子孫が出雲王国の播磨を奪いました。その際、出雲王国が同盟国のヤマト(フトニ大王=第7代の孝霊天皇)に救援を頼みましたがフトニ大王は無視しました。しかしその後考え直して、フトニ大王は2人の王子、大キビツ彦と若タケキビツ彦に播磨攻略を命じました。あっけなくヒボコ軍から播磨を奪還したものの、播磨を出雲へ返そうとせず、そのまま大軍を用いて出雲領吉備国に侵入し、占領しました。吉備には、播磨からのがれてきたヒボコ軍が陣取っており、それを撃破したことで、桃太郎伝説が生まれました。つまり、ヒボコ軍が鬼、キビツ彦が桃太郎です。
ヤマトの磯城王朝を親戚と考えていた出雲王国は衝撃を受け、防戦が遅れました。フトニ大王が吉備を手に入れたがった理由は、鉄がとれるからです。フトニ大王は、吉備王国を建てました。吉備王国は、出雲王国に2カ条の要求を出しました。
- 出雲王国は吉備王国の属国となれ
- 出雲王家が持っているすべての銅鐸と銅剣を差し出せ
吉備王国が勢力を拡張するには、周囲の豪族に配るため多くの銅剣を作る必要があり、素材の青銅を必要としたのです。出雲の両王家は相談の上、要求に応じないことを通知しました。すると、たちまちに吉備王国は出雲王国へ軍を進めました。出雲王国の入口を米子だと考え、東出雲王国を攻めました。吉備の攻撃はすさまじく、出雲は夜にゲリラ戦をすることでかろうじて防戦していました。吉備の応援のために、フトニ大王みずからが出向き、伯耆に本営を立て、そこは現在、樂樂福神社(ささふくじんじゃ)となっています(下の地図)。
樂樂福神社のすぐ北側に、出雲兵がたてこもった山があり、当時より鬼住山(きずみやま)と呼ばれ、現在もその名で呼ばれています。樂樂福神社の横には日野川が流れており、そこにかかった橋は鬼守橋と呼ばれています。鬼守橋を渡ったところには、「おにっ子ランド」という公園があります。勝者(吉備王国)からみて、敗者の出雲王国は鬼と表現されます。この付近には、孝霊天皇の鬼退治伝説が残されています。
出雲兵は敗走し、西へ、つまり出雲側へ移り、要害山にて防戦しました。これが、大激戦となり、700年にわたる出雲王国の歴史において、最大の闘いでした。東出雲王国の兵士の3分の1が戦死したそうです。この激戦が、古事記に神話として書かれています。オオナムチ(大国主)が兄の八十神(やそがみ)たちからいじめられ、殺されるシーンです。兄たちが、山の上で「赤い猪をそっちへ追いおろすから、しっかりつかまえろよ。逃がしたら承知せえへんど」とオオナムチに言いました。オオナムチがかまえると、真っ赤に焼けた石を転がり落とし、それを受け止めたオオナムチは焼け死んでしまいました。(神話ではその後、生き返るけど)
八十神は吉備で、オオナムチは出雲兵です。現在、その地は、赤猪岩神社(あかいいわじんじゃ)となっています。(上の地図)
この闘いの後、フトニ大王にニュースが届きました。「筑紫王国の物部軍が和歌浦に上陸した。その軍は紀ノ川をさかのぼり、ヤマト国に侵入するらしい」とのこと。怖れていたことが現実となりました。ヤマトにとどまり、出雲との連合軍で物部軍を撃退すべきでした。時すでに遅し。フトニ大王はヤマト大王の地位を失い、和国統一はならず、地方の王に成り下がってしまいました。そこで、東出雲王国と休戦することとしました。
フトニ王は、大山の北にある孝霊山(上の地図)に隠居し、余生を過ごしました。
ところが、大キビツ彦と若タケキビツ彦は、軍勢をまとめて、出雲南部戦線に移りました。それは次回に。