大学受験18 国立大学合格
前回からずいぶん日にちが空きました。ハルとナツの受験が進行中だったので、記事を書くことは控えていました。
完全独学で国立大学へ
結果です。
ハルは高卒3年目の年齢で、受験生とすれば3浪相当です。受験は2年目なので、実質1浪です。最初の受験(昨年)は京都大学総合人間学部のみ受けて不合格。2年目の受験(今年)は、前期日程で神戸大学文学部に不合格、後期日程で三重大学人文学部に合格しました。
その経緯は改めて書くとして、読んで下さっているあなたに伝えたいことは、小中高とも1日も学校へ行かず、大きなブランクがあっても、誰からも勉強を教えてもらうことなく、完全独学で、ほぼ参考書と問題集のみで、小中高の勉強をマスターし、国立大学へ合格したということです。私(父親)をリアルで知っている人は、私が勉強を教えていると思っているようですが、ほぼ教えたことはありません。質問すらしてきません。
かつてハルが、「わからないところがあったらどうするの?」と尋ねられたとき、「じっくり考えたらわからないこともわかるようになる」と答えていました。この感覚は4人の子、みな同じです。
同じ質問で、ナツは、「わからないことについては、関連する本(参考書)をいっぱい読む。それでもわからなければ、しばらくそのまま寝かせておくと、そのうちわかるようになる」と言います。
同じ質問で、アキは、「わからないことは、なぜ、どこがわからないかを突き止めて、そこを対策したらわかるようになる」と言います。
それぞれが言っていることは、4人ともおおむね同じです。つまり、日常的に参考書や問題集で勉強していて、ほぼその場で理解し習得していけます。まれにわからないことがあっても、自力で解決していけます。
かといって、私の子どもたちが生まれつき特別な何かを持っているわけではありません。ふつうの、平凡な子どもたちです。
教育格差、破れる!
こんなことが可能であるなら、世に言われる教育格差は消滅します。ハルは勉強について大きなブランクを抱えていました。わが家はそうとうな田舎に住んでいます。塾も習い事も家庭教師もいっさいありません。WebやICTによる学習もほぼ皆無です(可能であるのに子どもたちが選択しませんでした)。きわめてお金のかからない学び方を続けてきました。
だれでも同じような独学が可能なわけではありません。しかし、独学が可能となるような土台を築けば、だれでも独学が可能です。その土台は、特別な方法ではなく、誰にでも可能な、地味で地道な方法です。
ホームスクーリングを推奨しているのではありません。独学の土台ができていれば、学校の学びも大きく変わるはずです。
わが家の、学習環境
ホームスクーリング
わが家は4人の子が、完全ホームスクーリング(一日も学校で授業を受けたことがない)の完全独学(塾や家庭教師も含め、誰からも勉強を教えてもらったことがない)です。親である私は、学校を否定する思想を持っているわけではありません。ホームスクーリングがうまくいかないとか、子どもたちが学校へ行きたがったりしたら、学校へ行かせていました。ハルやナツが長期間勉強しなかった際には、かなり強く学校へ行かせようとしました。2人とも強く抵抗しました。ナツは、「むりやり学校へ行かせたって不登校になるだけだから無駄だよ」とさえ言っていました。
ホームスクーリングやアンスクーリングのご家庭と特別につながることは意識せず、学校へ行っている子どもたちやご家庭とつながり交流を持つことを優先してきました。わが家の子どもたちは、学校へ行っている子どもたちから、学校のことをいろいろと聞いています。学校に関する情報や話題には積極的にふれさせてきました。
地域格差
私たちは、京都府で唯一の村である南山城村の、さらに山の上の集落に住んでいます。自転車で集落内の移動はできても、集落から子どもたちが自力ではでられません。監禁ではないので、頑張って歩いて山を下りればどこへでも行けますが(帰りは登りなのでたいへんです)。わが家から最寄り駅まで8km。その間にバスなど公共交通はありません(現在はデマンド交通ができましたが、都会の人が思うような交通機関ではありません)。どこへ行くのも自動車です。わが家は普通免許を4人が持っていて(ハルとナツとパパとママ)、自動車は3台。自動車は下駄というか靴です。模試を受験するにも、自分で自動車を運転して駅まで行ってコインパーキングにとめるか、親が自動車で駅まで送り迎えするかが必要です。共通テストの際には、2人ともホテルに2泊しました。二次試験もそれぞれホテル泊です(安いビジネスホテルですが)。
教育格差には、地域格差という局面もあります。都市部と比べ、田舎では受験に明らかに不利です。南山城村は大阪、京都、奈良、名古屋といった大都市に近いですが、集落内にあっては、大学受験に関して大変大きなハンディがあります。交通だけでなく、子どもたちどうしの競争、情報交換、地元の家庭の意識、利用可能なリソースなど、都市の人たちには想像しがたいほどのハンディです。
経済格差
教育格差が語られるとき、経済格差に限定されているのをたいへんよく見かけます。経済問題は重要で深刻な問題であると認められますが、教育格差においては、根本的、致命的な要因ではありません。松岡亮二さんの『教育格差』(ちくま新書)にもそのことが詳細に論じられています。
お金をかければかけるほど、子どもの学力・学歴が上がるかというと、無関係ではないにしても、絶対的といえるほどの相関関係はありません。経済格差が絶対的に教育格差につながるかのように受け止められる論調を見かけますが、そんなことはありません。
わが家の学習は、参考書と問題集が中心です。この部分、お金がかかるように見えるでしょうが、学校へ行っている子なら、教科書、副教材を使った授業の予習復習でほぼ間に合います。それなら経済格差はなくなります。
教科書、副教材を使った授業の予習復習が大学受験の基本中の基本であることは、受験指南書の大部分が指摘しています。要は、予習復習ができないこと、授業をきいても十分理解できないことが問題なのです。わが家で実践した独学の土台作りは、まさにこの部分を改善するものです。
ICT
コロナ禍でオンライン授業が模索されましたが、公立小中学校では難しかったようです。難しかった要因は、学校側が先生のスキルと設備、家庭側が通信環境と端末(子どもが自由に使えるパソコンまたはタブレット)とスキルと、おおむね言われているようですが、もっと肝心なことがあります。生徒が先生の話を理解できるかどうかです。リアルなら、教室で座っていればなんとなくでもなんとかなりますが、オンラインだと何とかなる部分がなんとかなりにくくなります。小中学生の親御さんから話をきいていても、ほぼこの部分でつまずいていると見られるケースが多いです。
わが家はICT環境、スキル、理解ともまったく問題ありません。
私はパソコンを自作し続けています。仕事で使う関係上、故障は困るので、まだ使えるうちから中身のパーツを交換します。すると、使えるパーツが余ってきます。捨てるには惜しいので、それらを集めて組み替えて子どもたちにパソコンを与えています。リユースではなくリサイクルです。4人の子どもたちそれぞれ、3歳ごろから自分の専用パソコンをもっています。リサイクル品なので、どう使おうと、つぶそうとOKです(使い方が悪くてつぶれることはありませんが)。子どもたちは幼い頃からパソコンを使い慣れています。独学スキルがあるので、わからないことは調べてわかるようになっていきます。
子どもの学習ソフトをたくさん購入しました。進研ゼミでは、紙コースとタブレットコースを選べますが、子どもたちは4人とも迷うことなく紙コースを希望しました。私が子どもの頃にはICTで勉強するなどなかった話なので、子どもたちには、ICTにかかわる選択肢を提示しました。子どもたちが希望するなら、ICTばかり使って勉強することもありえました。
子どもたちは、勉強でICTを活用することは非効率であると判断しているようです。先日、ナツが言いました。「学習ソフトは使ってみたけど、まったく、何の役にも立たなかった。参考書で勉強した方がよくわかるので、パソコンでする勉強もネットでする勉強も無意味だった。予備校の動画授業もやってみたけど、あれなら参考書で勉強した方が早い」とのことです。勉強以外ではICTをさまざまな用途に使っていますが、勉強に関してはICTは非効率で生産性が低いそうです。
ICTに関してハンディを持っているご家庭は多いと思いますが、少なくとも勉強に関してはたいした問題ではないと言えば安心できるでしょうか。
独学の土台
わが家では、子どもたちがゼロ歳のころから、独学の土台づくりに注力してきました。もともとホームスクーリングをする考えはまったくなかったので、ホームスクーリングのための準備ではありません。
この土台作りは、伝統的な日本の学習法で、私の発明ではありません。わが国の先人たちが築き上げたものです。近年の新自由主義社会では、この学習法の意義が見失われています。しかし、効率優先、成果優先の社会にあっても、色あせていないことは間違いありません。それどころか、効率重視の学習法より大きな効率と成果を生み出しているようにさえ見えます。
ハルもナツも、あまりに勉強をノンビリしすぎて、勉強しない空白期間が大きすぎて、そもそも国立大学へ行くなどありえない状況でした。その状況を一気に転じることができました。
そのもととなった独学の基礎とは、単純です。読むことと書くこと。これだけです。ゼロ歳児には読むことも書くこともできませんが、読みきかせならできます。かなり時間をさいて、毎日読みきかせをしました。ゼロ歳児には意味がわからないのであっちへうろうろ、こっちへうろうろしますが、聞いていようと聞いていまいと、読みきかせをしました。子どもを本好きにすることはできません。好き嫌いは人それぞれの趣味嗜好です。親が押しつけたり誘導したりすることは適切ではありません。しかし、昔話は別です。まずどんな子でも、興味をもって聞きたがります。児童文学や童話ではなく、昔話です。ディズニーのようなエンターテーメント化されたものではなく、作家が改変したお話でもなく、昔から口承されてきたままの、素朴な昔話です。これは効きます。
昔話を毎日毎日浴びるように聞いていれば、やがて自分で本を読み始めます。無理な誘導をしなくても、読みたい本を読みたいようにさせておけば、だんだんと読む本も変わってきます。小学校1年生ごろから、毎日、原稿用紙1枚、本を書き写します。塵も積もれば山となる。4人の子たちはそれぞれ数千枚は書きました。書くことは苦になりません。体で書くことを修得すれば、思考の土台になります。思考は言語によってなされます。
大切にしてきたこと
親として、子どもたちに最優先とした価値観は、自分で自分の人生を生きることです。自律です。自分の意思で道を選び、選択に対する責任をもって生きる。選んだ道において社会に参画し、貢献する。そのための独学です。学歴は些細な問題なので、大学へ行くかどうかは本人の選択にゆだねていました。
ナツは捲土重来へ
さて、もう一人の受験生、ナツは、現役年齢です。勉強を始めた時期が遅すぎたため、今年合格できるはずはありませんでした。とはいえ、共通テストの1カ月前から驚異的に点数が伸び、共通テスト後のリサーチでは、志望校に対してなんとかならないこともないという判定で二次試験にのぞみました。さすがに合格レベルには少々(だと思います)及ばず、来年へ向けて再起動となりました。
次回は、合格までの道のりです。