独学で大学受験 6 読み聞かせが土台に

 

生後6カ月から絵本をたっぷり読み聞かせした。第一子は、歩くのはやや早かったが、言葉はやや遅かった。2歳ごろ、言いたいことが強くあるようで、一生懸命話そうとするのだが、「○⇔仝@〆¶△×◆♫^&■#」という宇宙語になってしまう。ごめん、何言ってるのかわからない。

すると、さらに一生懸命話そうとして、流ちょうな宇宙語を話す。ごめん、パパは地球人。できれば、地球語で、それもできれば日本語でしゃべって。

意思表示、コミュニケーションをとてもしたがるのは、読み聞かせの成果なのかも知れない。あまり通じないと、癇癪をおこす。大人でもわかってもらえないとブチ切れたりする人もいるぐらいだから、2歳児ならやむを得まい。

当時は、童仙房に保育園があった。ここでは待機児童の問題はない。子どもがあまりに少なすぎるので、希望する人は全員入園できる。

第一子は2歳から保育園に通っていた。さて、保育園でも宇宙語である。保育士さんは地球人だ。宇宙語に堪能な第一子は、二言目はたぶんこうだっただろう。「なんでわからへんねん! さっきからゆーてるやんけ!」

ところが、3歳になる直前ごろ、急に地球語を、それもありがたいことに日本語を話しだした。こないだまでの宇宙語はなんだったんだ?というぐらい、流ちょうな日本語である。

保育士さんは、第一子の言葉を聞いて、「筋道だった話し方をしますね。わかりやすくお話ししてくれます」と言っていた。言葉はやや遅かったが、話しはじめたとたん、理路整然と話す。これはあきらかに読み聞かせのたまものだろう。宇宙語だったのは、言葉がでないのではなくて、いくらでも言葉はでるのだが、いっきに理路整然とした話し方をしようとして舌がまわらなかったようだ。

私は早期教育、幼児教育には賛成しない。子どもの成長や関心と関係無しに用意されたプログラムに当てはめるのは逆効果ではないかと思う。子どもの成長を急ぐこともない。教育も、早ければ早いほど良いと考える人が多いようだが、そんなことはない。土台さえできていれば、ゆっくりでもかまわない。土台づくりは、教育とは別ものだ。このへんは、当時の私でも明確に認識していた。

読み聞かせは、子どもに何も強いない。プログラムやカリキュラムもない。ただ、本を読むだけだ。

第一子は、3歳で、土台づくりがうまくいきつつあるようだ。

2歳ぐらいで、絵本と並行して、文字が主体の本も読んできた。昔話集や創作童話、児童文学などだ。2歳児にはあきらかに言葉が難しいだろう。わからなくてもいいし、聞かなくてもいい。どんなかっこうで聞いてもいい。でも、読み聞かせていると、不思議なことにちゃんと聞く。わかっているのかどうかわからないけど、そもそもわかることを期待しているわけでもないので、確認もしない。

自然と言葉になじんでいくのだろう。私はホームスクーリングの過程で、勉強ということについて、そうとう勉強した。今では、確信している。このやり方は、とても良い。「正しい」と言ってしまいたい誘惑にかられるが、ぐっとこらえる。

「知の身体化」なのだ。勉強の土台づくりとは、知を身体化することなのだ。かつて、日本の教育は、知の身体化が基本だった。江戸時代に学問を身につけるには、5歳ごろから、漢文の素読(そどく)をする。漢文と言っても、四書五経が主に使われる。中国の最高峰の古典だ。日本語訳ではない。漢文のままで、暗唱する。意味がわからなくてもかまわない。何も見ずにすらすら言えるよう、訓練する。そうやって最高峰の人類の知を身体化した。唐木順三は、それを指摘する。明治初期の文化人たち(漱石や鴎外など)と、その後の文化人たちの間には明確な断絶がある。その後の文化人たちは、素読ではなく、学校教育で教養を身につけた。だから薄っぺらいのだ、とのこと。

素読の威力はすさまじいようだ。

第一子が4歳の時、同じ年の友だちと散歩をしていて、山を指さし、「あそこに鬼がいそうやなあ」と言った。友だちは言った。「鬼って何?」

第一子も、さすがに鬼は見たことない。私も見たことない。世の中には、鬼を見たと主張する人があるかもしれないが、鬼は存在しないことになっている。第一子は、鬼をリアルに想像した。このことの意味は大きいのではないか。存在しないものを想像する力。いいかえると、目に見えないもの、具体的に把握できないものを想像する力。他人を理解する、地球の裏側を理解する、はるかな過去を理解する、未来を予想する、遺伝子を理解する、コンピュータを理解する・・・。

ここでひとつ、鬼をなめるな!と言っておこう。

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