独学で大学受験 11 廃校
童仙房は、明治2年に開拓が始まった開拓地である。地域の歴史は明治2年に始まった。山の上のこの地域にも、小学校があった。長らく、分校だったが、昭和57年に独立小学校となり、新しい校舎が建設された。当時、南山城村には、4つの小学校があった。
平成に入ってから、村内の4つの小学校を廃止して、新しい小学校を1つ作ろうという動きが起きた。そこから10年ほどかかって2003年に新しい小学校ができた。4つの小学校のうち3つが廃校となったが、童仙房の小学校は廃校とならず残った。残すための住民運動があったわけではない。
その10年間というものは、私が童仙房へ移住したころにはじまり、8年間独身だったし、子どもがいないどころか、いつ結婚するのか、そもそも結婚できるのかどうかもわからなかったので、私にとって自分事ではなかった。1999年にインターネットの神様に導かれて結婚し、2000年に第一子を授かった。童仙房の小学校に通うことになるのだろうと思っていた。
超小規模校で、複式学級もある。そのぶん、地域に密着した学校だ。子どもが少なすぎて、運動会は小学校単独では開催できず、隣接する保育園と地域が、三者合同で開催する。出場者は、競技により、小学生、保育園児、地域住民だ。準備会議も、三者合同で行う。当時、小学校児童数は20人を切っていた。1クラスの人数ではない。1学年の人数でもない。学校全体の児童数だ。ここまで小規模だと、児童同士の競争はゆるく、競争というより協働しなければやっていけないレベルだ。
私は、これを望ましいことだと考えた。子どもを競争にさらすことは社会性を疎外するのではないかと思う。学力の点でも、競争することで伸びるのは試験の点数であり、学力そのものではないと思う。これは、世の中の多くの人の考えとは逆であるようだ。地域でも、子どもに競争が必要だと考える人たちもいた。
2004年ごろ、残された童仙房の小学校も統合に向かう方針が村の教育委員会から示された。4つの小学校を廃止して1つの新しい小学校をつくるということは、大事業である。村が、未来をになう子どもたちのために、なにか青写真をもって取り組んだにちがいない。それを知ろうとした。
驚いた。あまりにも衝撃的すぎて、具体的には書けない。村では、教育について、誰も何も考えないまま、統合が進んだ。きわめてアバウトな書き方をしたが、それでも衝撃的すぎる。その後、2005年秋に村議会で童仙房の小学校の統合による廃校が可決された。そこにいたる経緯もいろいろありすぎて、公にすることがためらわれるので、書かない。
2005年秋というと、ちょうど第三子が生まれた時期だ。第一子が保育園の年中、第二子が保育園に入る前の2歳。2007年春から、第一子が小学生となる。順当に行けば、2006年春からは、第二子が保育園児となる、はずだった。
この村の教育に、子どもたちをゆだねても良いものなのかどうか。迷った。
私は、学歴第一という考えは好まない。お前は高い学歴を手にしておいて何を言うか、というツッコミがあるかもしれない。高学歴の親は、子や孫に対してさらに高学歴が継続し発展することを期待する人もいる。「いる」というより、多いだろう。かたや、高学歴を手にしたが故に、学歴信仰の空疎さを知る人もいる(こっちは少ないだろう)。学歴を全く否定する人もいれば、学歴信仰を否定するかたわら学問そのものはだいじにする人もいる。私は後者の後者だ。
肩書き、学歴、所得などは、その人そのものではない。たんなる属性に過ぎない。でも、世間では、多くの人がこれらを至上のものとしてあがめ奉る。ここには、大きな違和感がある。けれども、それらの中身は大切だ。その人が何を考え、どう生きて、社会にどう参画し貢献していくか。これはその人そのものである。
インターネットの神様に導かれて、何の共通点もなく何の接点もない妻と結婚したのだが、たった1つ、共通項がある。この人生観なのだ。共通項は、この1つだけでよい。あとはどうでもよい。おかげさまで、2022年現在、銀婚式が視野に入った私たち夫婦に夫婦の危機はなかった。意見の相違はたびたびであっても夫婦喧嘩らしいものはなかった。
子どもたちに望むことは、偏差値の高い大学に入って高学歴を身につけ、大企業に勤めて安定した生活をしてほしい、などということではまったくない。結果としてそうなるのはけっこうだが、そこを目標にすることはない。
自分の頭で考え、自ら選択し決断し、自ら社会に参画して、自分の人生を生きていって欲しい。その人生がどのようなものであっても、口出しはすまい。望むのは、それだけだ。そのためには、学力が必要だ。ただし、試験の点数で測る学力ではない。
2005年秋、童仙房の小学校がなくなることが確定し、子どもたちの教育について迷うこととなった。この迷いがドラマを生み出した。