独学で大学受験 13 生協の活動
京大と地域の連携が立ち上がっていくあり得ない速度に目が回るのだが、まだまだそれだけではない。それで目が回るなら、今回の話で失神しかねない。くれぐれも健康には気をつけて欲しい。
京大が初めて童仙房を訪問したのが3月2日。私が初めて研究室を訪れて2カ月たらずだった。その2週間後、3月中旬に、10年ぶりという電話をいただいた。
京都でエルコープという生協を設立した方がいた。徹底的に消費者目線でこだわった生協だ。その方と、10年前に、何かの集まりで知り合い、いちど、童仙房へ来て頂いたことがある。その後、たがいに連絡をとることもなく、10年経ったその日に突然、電話があった。
大阪で、同じようにアルファコープという生協を設立し、組合員の子どもたちの教育活動を展開している。教育といっても、お勉強ではない。自然のなかで農業生産にかかわるセカンドスクールような活動を信州で長年継続してきたが、遠いので、関西圏でフィールドを探しているとのこと。私は京大との関わりができつつある話をし、一緒にどうですか、と誘った。すると、「それはすばらしい!。ぜひとも」と。
4月に、アルファコープの教育活動グループが8人、童仙房へ来て、童仙房の役員たちと会談をもった。童仙房は、スーパーウェルカムである。ちょうど小学校の校舎が廃校となってあいたので、ここを拠点として、京大と生協がそれぞれ、地域と活動していく。京大が教育学部なら、生協も教育活動である。京大と生協も会談し、意見交換した。
生協の活動は、生協職員の担当者を核として、組合員の親からなる実行委員会とスタッフ、さらに大学生等のリーダーがいて、参加者としての子どもたち(組合員の小学生、中学生)で構成されている。生協が用意して組合員が参加するのではなく、組合員の親たちが中心となってつくっていく活動であった。自ら計画し、自ら運営していくという意味で、たいへん生涯学習的な活動であった。
生協は、この活動を「がっこう」と呼んでいる。「学校」ではない。全く別ものだ。だから、ひらがなで表記する。発音は同じではないかと思うのだが、「学校」と「がっこう」がまぎれることは、不思議とない。
6月には、スタッフやリーダーが大勢来て、フィールドを視察した。8月には、童仙房内で畑をつくった。
11月3~5日の3連休に、2泊3日で「秋のがっこう」を廃校となった小学校校舎で開催した。生協の畑で作業したり、屋外でご飯をつくったり、童仙房の椎茸農家が栽培している椎茸を椎茸狩りしたり、キャンプファイアーをしたり、散策したり。もりだくさんの3日間だった。私は、アウトドアや野外活動をそれなりに経験してきたが、このような大人も子どもも一緒になって遊びたおす活動は初めてだった。私の第一子はまだ小学生になっていなかったし組合員でもないが、地元枠で特別に参加させて頂いた。「秋のがっこう」が終わり、家に帰ってから、第一子はしばらくぼーっとしていた。あまりに楽しく、あまりに充実した3日間だったらしい。
10年ぶりの電話を受けてから、8カ月であった。生協の活動が、童仙房でしっかりと立ち上がった。
翌2007年からは、年に2~3回、宿泊型の「がっこう」が開催された。2008年からは、童仙房内で、私有林を活動で使えることとなった。自然林(雑木林)を手入れしながら拠点作りをしていき、森の活動も加わった。
「がっこう」をやっていくには、スタッフたちが準備等でなんども童仙房に来る。日帰りのこともあれば泊まりのこともある。深夜までアルコールを飲みながらおしゃべりが尽きない。森の整備も、「がっこう」とは別で、有志が集まって進めた。この有志たちを私はこっそり「SWAT」と呼んでいる。森の中にテントを持ち込んで泊まり込み、整備活動をしたり、ご飯づくりをしたり、酒を飲んだりと、子連れのおっさん・おばはんたちが子どものようにわいわいと楽しく遊んで活動していた。
私の子どもたちも、「がっこう」そのものの他、「がっこう」以外の準備や整備、そしてSWATにも参加した。家族ぐるみである。ゼロ歳児でもクーハンに入れて森へ連れて行った。
生協の活動は、2022年現在も続いている。2年間、コロナでほとんど活動できなかったが、2022年には再開しつつある。初期のスタッフは入れ替わった。初期の子どもたちは、いまは大人になっている。
私の子どもたち4人は、完全ホームスクーリングで育った。他の人たちとの交流は、生協の活動によるところが大きい。生協の活動がなければ、そもそもホームスクーリングの継続は無理だったかもしれない。
話を戻そう。2006年、野殿童仙房小学校が廃校となり、野殿童仙房保育園が廃園となった。まったくブランクなく、廃校・廃園と引き替えに、京大と生協が来た。廃校前よりにぎやかになった。
京大へは私が動いた。あっというまに活動が生まれ、立ち上がった。同時進行で、生協の活動が立ち上がった。それにしても、生協が来たのは、10年ぶりの電話が発端だった。その電話が1年前なら何も起きなかった。1年後なら、京大と同時進行ではなかった。すでにできあがって動いているフィールドにあとから生協がはいってくる形になっただろう。なぜ、その年だったのか、なぜ、3月だったのか。だれもシナリオを描いてはいない。たんなる偶然なのだ。京大も生協も、あまりに展開が速すぎる。あまりにタイミングが良すぎる。どれもこれも、きっと偶然なのだ。そうだ、偶然なのだ。