独学で大学受験 15 創意工夫

 

保育園に行かなくなったことで創造性が進んだ、というのはある意味、アイロニカルなことかもしれない。これをもって、世の中の保育園や幼稚園を否定したり、保育園・幼稚園に行かないほうがよいなどと喧伝するのもやり過ぎだ、というか、間違っている。

創造性を高めるには、大人があまりかまいすぎない方が良いだろう。そこは間違いない。ただ、何もなくて放置すれば良いかというと、そうでもないだろう。

まずは大人、とりわけ親の背中だ。親が、「疲れた~」といってテレビばかり見ていては、子どもが創造性を発揮する展開を描きにくい。親が、何らかの創意工夫や試行錯誤を見せていると、子どもはそのようにならうだろう。

わが家では、家を造った。パソコンは組み立てたり修理をしたりする。パンやジャムやケーキやお菓子も手作りする。手打ちうどんも、ピザも。梅干しも梅シロップも。いろんなものをつくる。

次に大事なことは、道具と材料だ。わが家では、文房具をふんだんに購入し、いくらでも自由に使えるようにしてある。紙も、コピー用紙は当然だが、折り紙、画用紙、厚紙など、いろんなものを好きなだけ使って良い。大工道具は何でもある。ノコギリでも金づちでも何でも使って良い。木材の切れっ端や半端はいくらでもある。好きなだけ使って良い。まだまだ、電気パーツもまとめて買ってやった。豆電球50個、ソケット50個、モーター20個、電池ボックス20個、電線リール巻、スイッチ各種たくさん、こんな感じで、なんぼでも使って良い。豆電球はマジックで色を塗ると、カラフルな光となる。

以前の記事にも書いたが、パソコンを自作しているのでパーツが余る。それらを集めて子ども用パソコンを作り、3歳から各自に与えている。リサイクルパソコンなので好きなように使って良い。つぶしても良い。

わが家ではこのようなものを自由に無制限に与えたが、どこの家庭でも同じことができるわけではないだろう。逆に、わが家ではできないことが、他の家庭では可能だ、というものも多いだろう。あらゆるもの(道具、材料であって、完成品や製品ではない)を無制限に与えることなど現実的ではない。それぞれの家庭でできるジャンルが異なるはずだ。子どもは、親の可能なジャンル、可能な範囲に制約をうけるが、それでよいのではないか。どんなこと、どんなものからでも、創造性をはぐくむことはできるはずだ。

何かをしなければいけないというものはない。何もしなくても良い。何をするか決められた何かがあるわけではない。何かをするなら自分で考える。失敗しても良い。無駄になっても良い。うまくいかなくても「下手くそ」などと誰も言わない。一番悪いのは、親の余計な口出しだ。

このようにしていると、子どもたちはいろんなものをつくる。第二子以降はそもそもまったく保育園に行っていない。遊びを導かれるという経験をしていない。4人の子どもたちは、いろんなものをよくつくった。それぞれ個性があり、つくりたいものが違うが、思い思いにつくる。よくこんなことを思いつくなあと感心することもしばしばである。もちろん、失敗や無駄も非常に多い。ノープロブレム。あまり無駄が過ぎるとママは気になるようだが、なんとかこらえてもらった。

あれこれ工夫して試行錯誤しているときは、とくに楽しそうだ。

創造性といっても、芸術家に育てようというわけではない。受け身の生き方はしてほしくない、ということだ。つまり、自分の人生を自分で生きていってほしい。それがどんな人生であっても。自分の人生を誰からも決められず、自分で生きていってほしい。それはつまり、創造的な人生なのだ。会社に勤めたとしても、創造的に生きてほしい。仕事は決められたことをするかもしれない。決められたことをするさいにも、姿勢は創造的であってほしい。

そういうわけで、親としては、習い事は全く考えない。もし、子どもが何かを習いたいと言えば、もちろんできるだけさせてやりたい。習い事も創造的に、だ。子どもが何かを習いたいと言わなければ、親からはさせることはない。

そのぶんの投資は、別の方面へ振り向ける。これまで書いてきたように、絵本、図鑑をはじめとする本だ。それから、今回書いたような道具と材料だ。これらの投資は、金額としては、習い事よりも安いだろう。わが家は山の上なので日常的に図書館を利用しづらい。そこで、本を大量に買う。都会の家庭なら図書館を気軽に利用できるだろうから、本にお金をかけなくてもいいかもしれない。そうすると、経済的に余裕のない家庭でも、わが家のようなやり方なら、やっていけるのではないか。

もう一つの投資は、習い事よりうんと高くつく。親の時間だ。親の時間を、できるだけ子どもに振り向ける。読み聞かせはもちろんだが、子どもが本を読み出せば、本について子どもが話したがる。そこへ耳を傾ける。創造的な遊びをすれば、口は出さないがある程度見守る必要がある。道具は危ないものが多い。危ないから使わせないと考える親は多いだろう。私はあえて危ないものでもなるべく使わせる。そのぶん、知らん顔はできない。そっと見守る必要がある。ずっとついていては創造的にならないが、離れていても注意は怠らない。これは、時間というより、意識の問題かも知れない。

時間がありあまっている親はあまりいないだろう。わずかの時間、すき間の時間を、子どもに向けられるかどうか。努力をしても時間は増えない。意識のありようは無限に変えられる。無限は言い過ぎか。自分で思っているよりうんと余地があることは間違いない。意識をささいに変えるのは無料だ。大きな努力が必要なわけでもない。塵も積もれば山となる。子どもが中学生、高校生になる頃には、海抜ゼロメートルの低地と富士山ぐらいの差になる。塵をなめることなかれ。

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