独学で大学受験 19 書き写し
私は昭和39(1964)年生まれだ。東京オリンピックが開催された。東海道新幹線が開通し、東名高速・名神高速が開通し、最初の大規模ニュータウンである千里ニュータウンができた。戦後のエポックともいえそうな年だ。
私より年配の方に、「子どもに書き写しをさせている」というと、半分くらいの方が「それはいいことをしている」といった反応をする。私より若い人たちに同じことを言っても、ポカンとして、「それって何の役に立つのですか?」といった反応をする。私の世代の前後で断絶がありそうに見える。
かつて人類は書き写しを、世界中で大勢の人がふつうにしていた。印刷技術がなかった頃は、手で書き写すしか、本を複製できなかった。文学作品も、聖書や仏教経典などの宗教聖典も、行政文書も、どんどん書き写した。印刷技術が普及すると、書き写す理由がなくなったので、複製づくりのための書き写しは衰退した。
戦後、コピー機が普及すると、ちょっとした文書も断片も簡単に複製がつくれるので、書き写しの理由がさらになくなった。私が小中高生のころは、まだコピー機が普及していなかったが、大学生の当時、いっきに10円コピーが普及した。ノートも教科書もコピーする。あれもコピー、これもコピー。さらにパソコンとスキャナやプリンタが普及すると、手書きそのものが衰退した。
中高生が英語の予習をするとき、ノートを見開きで使い、左ページに英文、右ページに和訳、というやり方が一般的ではないだろうか。そのさい、左ページの英文は教科書そのままなので、手で書き写すと時間がもったいない。教科書をコピーして貼り付けておくのが効率的だ、という人もいる。
他人のやり方にケチをつけることは極力控えたいが、その考え方には強烈に異を唱える。英文を書き写すことこそ、基本中の基本で、どんな勉強よりも大切なのだ。
うちの子は、それぞれ英検に合格している。
第一子 19歳で2級 現在21歳の大学生
第二子 中3で準2級、高1で2級 現在1浪の受験生
第三子 中3で準2級と2級 現在高2
第四子 中3で準2級 現在中3
第一子が19歳なのは、それまで英検を受けることを思いつかず、第二子が2級を受ける時に同時に受けたからだ。みな、1度で合格している。
子どもたちが英検に合格したのは、ほぼ基礎英語がすべてと言ってよい。ほかに特別なことはやっていない。小学生高学年あたりから、それぞれ、基礎英語をやった。それも独学だ。ダイアログの英文を何度も繰り返して読んで暗唱する。何も見なくても言えるようになる。その英文を何度も書き写して何も見なくても書けるように練習する。すべてのレッスンでこれをした。落ち着いて考えて欲しい。これをするのに、特別な能力や生まれつきの才能はいっさい不要だ。ただ、やるだけだ。だれでもできることだ。第二子は「基礎英語だけで英検2級に合格できた」と言っている。だれにでもできる学習法であるばかりか、お金も極端に安い。毎月テキストとCDを買っても2千円ほどだ。あまり言うと塾に怒られそうだからこのぐらいにしておこう。
基礎英語を終えた後、『速読英単語』という教材をつかって、同じことを繰り返した。覚えるまで読む、覚えるまで書く。基礎英語と『速読英単語』を終える頃には、かなり英語力がついている。英語の本を読んだり英語で文章を書いたり、それぞれがしている。第二子は様々な国の若者たちと文通(手紙)をしている。第三子は『ハリー・ポッター』『ナルニア国物語』などの英語の原書、好きな推理小説の原書を多読している。第四子も原書を読んでいる。
それぞれ、英語をだれからも習っていない。学校にも塾にも行っていない。まったくの独学だ。読むことと、書くことの蓄積。これが大きな力なのだ。
私が中学生ころまでは、書き写しが良い勉強になると言われていた。中3の頃、朝日新聞の天声人語を毎日書き写した。当時は天声人語からひんぱんに入試問題がつくられていた。高校生の頃も、新聞や文学作品を書き写した。
大学生になって、「3000枚書き写すか創作を書くかすれば、文章で困らなくなる。文章で仕事をしていける」と、どこかで読んで、一念発起、原稿用紙を3000枚買った。ダンボール箱に入っていた。大学生協のおっちゃんが、「小説家にでもなるんか?」と聞いてきたほどだ。そして、毎日数枚から十数枚ずつ文学作品を書き写した。1600枚まで書いて、就職し、書き写しは中断した。子どもの頃からトータルすれば、3000枚はクリアしているはずだ。あまり真面目な大学生とは言えなかったが、書き写しは財産となっている。このとき書き写しをしていなければ、人生は大きく変わっていた。
人々は古来、必要があって書き写しをしていたが、今はその必要がなくなった。だが、書き写しをすることには知性を磨く作用があり、そのことは「必要」の陰に隠れていた。
これからは、デジタルの時代だし、しっかりスキルをみがいてどんどん活用すべきだ。そこに異論をはさむ人はあまりいないだろう。でも、デジタル化すべき事柄と、すべきでない事柄は仕分けした方がいい。少なくとも、知性を磨く作業は自分の身体でおこなった方がいい。身体で知性を磨けば、その知性はデジタルの活用にも生きる。
今後、デジタル化が進むほど、身体で知性を磨く意義は見えにくくなっていくかも知れない。だとすれば、身体で知性を磨くことを積み上げた者は勝ち組になっていくのではないか。と私は確信している。わが子を勝ち組にしたければ、書き写しの効用は黙っておいたほうがいいのかも知れない。正直言って、そういう考え方は好きではないのだが、耳を貸そうとしない人たちに無理に言って聞かせるのはおこがましい。やめておこう。