[本を書いた05]ホームスクーリングを始めたたった1つの理由

ホームスクーリングをしているというと、まずは不登校かと聞かれます。不登校ではない、最初からホームスクーリングなのだというと、学校教育を否定する思想をもっていると、ほぼ必ず思われます。いや、そんな思想なんかなにもない、というと、ひどく面食らう人が少なくありません。学校教育が○か×か。そんな二者択一的な視点に閉口することをずいぶん経験してきました。

本書でも、p.23にはっきり書いています。「自分の人生を自分で生きる」ということが、私たち夫婦にとって最も大事な価値観であり、そのためのホームスクーリングなのです。ホームスクーリングでないとその価値観を実現できないのか、というと、そんなことはありません。だから、ホームスクーリングありきではないし、学校教育否定でもないのです。

「自分の人生を自分で生きる」とは私たちにとっては明確でゆるぎない人生観なのですが、そのように意識したことのない人にとっては、わかりにくいかもしれません。いいかえると、「自分の人生に責任を持つ」「自分の人生を自分の意志で選択する」となります。もっというなら、「受け身ではなく、主体的に生きる」となります。

主体的に生きることを怖いと感じる人が多いようですね。だから受け身で生きる方が楽だと。でもね、受け身で生きていると、不平、不満、ストレス、不安、心配を常にかかえることになりがちです。主体的に生きれば、これらはありません。ストレスフリーです。

他人と同じであってもかまいませんが、他人と同じであろうとするのはバカげています。自ら選択した結果が他人と同じなのはいいのですが、他人に同調していくのは人生の放棄です。というのが、わが家の価値観。

学校へ行くなら、学校へ行くことを自ら選択する。みんなが行くから自分も行く、のではなくて。もちろん、世の中のルールに従い、規則・法律を遵守するのはとうぜんです。もし、規則・法律を違えるのなら、それも自分の選択であり、その選択には責任を持たねばなりません。

教育は権利であって義務ではありません。民主主義国家において、「教育を受ける義務」は理由がありません。「世界人権宣言」でも「子どもの権利条約」でも、教育は権利であると明示されています。「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」ともされています。

「自分の人生を自分で生きる」ためには、選択肢が必要です。でないと、自分の意志で選択することができません。そして、世の中を広く知り、多様な人びとの考え方、生き方、価値観、行動様式を理解し、共に生きていかねばなりません。世の中のあらゆる知見を学び、尊重していかねばなりません。無関心は主体性の欠如です。これがわが家で考える「勉強」であり、ホームスクーリングは選択の1つなのです。

選択は変更がありえます。選択の変更も選択のうちです。

最後に、ナツの言葉を紹介しておきましょう。

「主体的に生きることを知らなかったら、何も疑問を持たずに受け身に生きていくことになったと思う。それはそれで生きられる。でも、主体的に生きることを知ったら、受け身には生きられない。そのような生き方はしたくない」

(続きは次のページへ)

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