[本を書いた11]学力より知性
本を補足するような内容をTwitterに書いています。そのなかのいくつかをまとめて掲載します。(その2。追加中)
学力より知性
(2023年7月8日)
教育格差は学歴の獲得格差だと論じられることが多い。すると、勉強の得意でない子が偏差値の高い大学へ進学することが格差解消のゴールだということになる。なぜ格差が問題になるか、見えていないのでは?
偏差値も高学歴も相対的なものなので、中下位層が底上げすれば上位層はさらなるリソースを投入していくだろう。教育産業が潤うだけ。「学力」は点数や偏差値で測るものがイメージされるだろう。生きる力の元となるものを「知性」と呼ぼう。学力と知性は同じものだろうか。または連動するのだろうか。
教育関係者は連動するとは言いにくいだろう。でもオフレコでは連動する、相関があるという。学力が低いと知性を磨くことに関心がないか、磨く方法を知らないかというのが相関の仕組みではないか。高学歴で知性の低い人は珍しくない。高学歴でなくとも知性が高いと見える人もいる。
知性が低いと、まずは因果関係が理解できない。目の前で起きている問題の原因は何か。それがわからなければどう対応したらいいか考えることができない。すると、感情的になる。キレる、怒る、絶望する、諦める、八つ当たりする。原因への対応ができなければ、同じ事象を繰り返してしまう。
「知性が低い」とは馬鹿にして言っているのではない。諸問題の原因の原因にあたるファクターなのだ。知性が低い人は圧倒的多数に相当する。つまり、普通の人びとのことなのだ。人生の困難に対処できないのみならず、食い物にされている。でも本人は気づいていない。教育格差の核心はここだと思う。
知性が低いとだまされる
(2023年7月9日)
霞ヶ関は人びとの考える力が低いことを知らないように見える。その一方、意図的に誤解させたりある方向へ誘導したり、ラベリング、分断と、中世ヨーロッパの魔女狩を彷彿とさせるようなこともやる。
霞ヶ関のお役人たちは国民の幸せのために粉骨砕身働いてくれている。のは間違いないだろうが、大多数の国民の考える力が低いことを悪用したりもする。知らずにやっているのではなく確信犯だ。政府もやる。今話題のショックドクトリンもそうだ。言葉の使い方に罠が仕掛けられていることもある。
国(政府と霞ヶ関、マスコミも)の知性の悪用に気づく国民はどのくらいいるだろう? 10%ぐらい? 知性の高い人たちのうちいくらかは悪用する側だ。国がいつも国民を欺すわけではない。たいがいは国民のために仕事をしている。だからなおのこと厄介なのだ。おおむね味方、時々悪魔。
あと20%か30%ぐらいの国民が知性を高められたら、国は知性の悪用ができにくくなるのではないか。国民は国の敵ではない。知性を悪用するな。信頼しあい、共に未来へ歩いて行こうではないか。そんな時が来るか、永遠に来ないか。信じたい。教育格差をその文脈で考えている。学歴など些細な問題だ。
わが家はホームスクーリングだが、このような知性を最も大事にしている。あたりまえだが政府は敵ではない。国と国民が敵対しない社会を望んでいる。人びとが困難を越えてより良く生きられるよう望んでいる。最も確かな手立ては知性の向上ではないだろうか。偏差値で測れないのは言うまでもない。
身近な問題にも知性が必要
(2023年7月10日)
多くの田舎は地方衰退、地方消滅の危機にある。そのテーマで会議(市町村議会、役所、役場、民間)をすれば、雇用の問題となるところもある。時に思考停止に見える。これが教育格差につながるのだ。
私は都市で生まれ育った。ものすごい人口だが、人口に見合う雇用など市内にはない。雇用が問題になったことすらない。なのに、その市は栄え、衰退も消滅も見えないだろう。多くの市民は近隣へ勤めている。働かねばならないがそれが地元である必然性など、はなからない。大事なのは雇用ではない。
私が現在住む村では、役場の職員は村外に住んで通っている人の方が多い。村内のわずかの雇用でも、村外から通っている人が少なくない。雇用を増やしたところで問題が解決しないことを、現実が語っている。でもなぜかいつも雇用の創出が問題の第一となる。えんえんとループがつづいている。
衰退の原因について私が推測することはできるが、正しくは調査が必要だ。アンケート調査の設定に先入観や予断があれば原因を浮き彫りにすることは難しい。村民が意識しないレベルのファクターを見いだそうとすれば、ナラティブも有効な方法だろう。ただし、やや専門知識が必要だ。
大きな自治体だと、様々な能力・スキルをもった人もいるので、まあなんとかなる。弱小自治体だと、そのような人材はほぼいない。それなら外部へ頼ればいいのだが、「雇用が問題だ」という無限ループから脱却できないとそれすらおぼつかない。教育格差の一端なのだ。郷土を愛し案じているからこそ。
思考停止は怖ろしい
(2023年7月11日)
安易な色分け、ラベリング、決めつけが有無を言わせず行われるとき、とても危険な状態が進行している。多くの人が思考停止に陥っている。反知性であり、非知性だ。集団ヒステリー状態だ。
『ショックドクトリン』もその一つだが、年々激しさを増している。多くの人は大きなウソほど簡単に信じるという名言もある。あまりに的を射ている。現実世界は単純ではない。峻烈な否定・排除・決めつけ、同調があれば、まず間違いなくそれはウソだ。「非国民」がウソだったことを思い出そう。
落ち着いて生きていこう。世の中が激しく動くほど、自分を見失わず。それがアイデンティティだと思う。そのために知性が必要なんだ。学力と重なるところもあるけど、やっぱり別ものだ。多様性は重要な概念だ。否定、排除、決めつけ、同調は相容れない。いろんな人がいる。共に生きていきたい。
矛盾があったり不条理があったりするのも世の中だ。感情的にならず、穏やかに自分の頭で考えていこう。そう簡単に正解は出ないだろう。解決策も見えないかも知れない。いつでも即解決がいいわけではない。生半可な解決策は深刻な分断をもたらすかもしれない。勇ましい言説はいらない。要注意だ。
「自分さえ良ければいい」「今だけ良ければいい」という知性の活かし方は怖ろしい。私たちは人間だ。多くの人が支え合って生きていかないとやっていけないようにできている。そのように知性をいかしていこう。と、ホームスクーリングにおいて子どもたちと語り合ってきた。独学は知性を磨く道だった。
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