[本を書いた19]市長のフリースクール発言

市長の無知

2023年10月21日

東近江市長が「不登校の大半の責任が親にある。フリースクールは国家の根幹を崩す」と発言したことがニュースになったとき、とんでもないこと言わはったなあ、今でもこういう人いるんやなあ、と感じました。

1990年代前半までは、登校拒否は逸脱であり治療すべき疾病であるとされていて、当事者ご家庭は非国民にも近い扱いでした。ところがそのアプローチが問題を悪化させるだけだとあきらかになり、文科省が「不登校は誰にでも起こりうる」と宣言したことで1990年代後半以降、徐々に空気が変わってきました。

当初はアンチ学校一辺倒に近かったオルタナティブ教育もだんだん学校教育と宥和・対話に移っていき、学校教育・オルタナティブ教育が子どものためにという同じ方向を見据えつつある(今もまだその途上)という過程を、他の首長さんは知っていても東近江市長さんはたぶんご存じない。

議論は歓迎

2023年10月22日

東近江市長事件をきっかけに学校教育論議が起きるのはいいことでしょう。フリースクール側もそう望むという見解が見られます。当市長のみならず国民の中に無理解はまだまだ根強いと見られます。

わが家は完全ホームスクーリングの完全独学で4人の子を育ててきましたが、不登校ではありません。最初からのホームスクーリング選択でした。不登校当事者として語る資格はありません。しかし、オルタナティブ教育当事者としてなら最も資格ありでしょう。でも学校教育否定論者ではありません。

不登校が世に認知されていく30年間のプロセスがあってこそのわが家のホームスクーリングです。当市長の発言は不登校と無関係のわが家の尊厳も毀損します。そして市長の発言は学校教育そのものの尊厳も毀損する。学校教育の現状と努力を見ていないから。その努力はまだまだ緒に就いたばかりですが。

学校は強制収容所か?

2023年10月23日

『出る杭の世直し白書』という本で前川喜平さんが言っています。学校外の義務教育を認める法案を議論したら共産党を含む超党派で反対されたそうです。学校教育制度が崩れる、みんな学校からいなくなる、と。

東近江市長と同じ発想です。学校は苦行の場であり、全ての子どもは苦行から逃げてはいけないと。逆に言うと、ちゃんとわかってるやん。学校は苦行以外のなにものでもないと。で、そういう学校を変えていこうという動きも出てきてるんですけど、苦行の場を変えちゃいかん、それは学校ではない、と。

わが家がホームスクーリングをやってて、学力と社会性についていつも問われます。つまり学校教育は学力と社会性を育てる場だというのが一般の認識のようです。っちゅうことは、学力と社会性は苦行によって身につくんすか。ほぉ~、知らんかった。まさか学校って、強制収容所みたいなもんだとでも?

市長発言のほんとに大事な問題点

2023年10月24日

東近江市長のフリースクール発言は致命的な怖ろしい問題をはらんでいます。市長は「何が問題なのかわからない」とおっしゃっています。不登校やフリースクールに限りません。パンドラの箱といっていい。

学校は苦しい場所だが無理してでも行かなければいけない、行かせなければいけない、それができないのは親の責任だ、という趣旨のことを言っています。「学校」という対象を伏せて同じことを言えば、現代なら虐待に相当します。学校なら虐待にならない。なぜ学校ならこんなことを堂々と言えるのか?

学校は国家の事業です。国家は国民を虐待しない、ウソつかない、とされています。国民はそう信じている。そう信じたい。願望です。それはそれでいい。国家を信じましょう。で、国家は何を見ているのか。つまり、学校を通して何をしようとしているのか。これは明らかです。

グローバリゼーションに対応できる人材育成です。世界の競争に勝ち抜く人材育成です。だから小学校から英語、プログラミングをやろうとします。選択でなく必修でしょう?できる子だけ競争に参加させるのではなく、全員です。履修内容が増えても先生の負担が増えても大きな目標のためには関係ない。

国立大学の運用方針にはもっと明確に露骨に表れています。世界競争に勝ち抜く人材を育成する。新自由主義のグローバリゼーションに全面突入です。国立大学の大部分はすでにのみ込まれています。学校教育は大学を頂点とするヒエラルキーを構成しています。意識しなくてもそこに参加している。

世界競争に勝ち抜く人材育成には裾野を広げなければいけません。つまり大多数の敗者を伴うことが前提とされています。昭和の学校は必ずしもそうではなかった。新自由主義が出てきたのは中曽根政権以降です。臨教審が教育の方向を大きく変えたのもその時期です。そしてそのあたりから不登校が出現。

新自由主義のグローバリゼーションが少数の勝ち組と大多数の負け組に分け、格差をどんどん拡大していくことは皆さんご存知の通りです。現在の学校教育はわずかの勝者を育てるために大多数の敗者を生み出す仕組みです。みんな、うすうす感じているでしょう。だからヒステリックに中学受験に殺到する。

昭和生まれの市長は世界の動向、国の動向を知らないまま昭和の感覚で言っちゃった。昭和ならさして問題にならない。現代の動向を知っている指導者はいらんこと言わない。みんな、気づいていても気づかないふりをしている。抗えないから。学校が敗者養成機関だなんて、言ってはいけない。しーっ!!

圧倒的多数の敗者はどうなる?生きていけないわけではない。支配者の意に従ってさえいれば普通に生きられる。疑問や反論や抵抗は厳禁。現在でも少しずつそうなりつつあることに気づくでしょうか?家畜は主体性を求めない。自分のいる場が世界のすべてと思っている。その環境が自由だと思っている。

新自由主義のグローバリゼーションは世界を一様化へ向かわせる。競争とは1つの軸においてなされるから。でないと、勝ち負けが決まらず、格差も生じない。勝者に旨みがない。ならば、多様性と共生のグローバル化はどうだ? 軸が無数にあれば競争は生じない。勝者も敗者もない。

もちろん、不登校もオルタナティブ教育も多様性を実現する大切な存在。恐怖に駆られての中学受験は危険。小学生のうちから敗者確定してどうする?何につけ恐怖や不安をあおる言説は危険。レッテル貼りや同調圧力も危険。それらは多様性を封じて一様性へ向かわせる。落ち着いて考えてみませんか?

 

(続きは次のページへ)

 

 

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