大学合格後2

昔話は人類の長い歴史において人を育てる有力なツールでした。実績十分です。性急に成果を求める時代に耐えうるかどうかですが、現代も有効であると確信しています。土台が堅固であればあるほど、何をやっても成果が加速します。書店に本物の昔話はほとんどなく、存在が見えなくなったことが問題です。

書店で子どもの本として陳列されているのはほとんどが昔話ではなく創作話ですし、昔話があっても大部分が改変されたものです。創作話と昔話は全く別ものです。すぐれた創作話も多数ありますが、昔話は創作話と比較ができません。根本的に、根元的に、別なのです。ここが理解されにくいようです。

土台づくりは時間がかかります。手間ひまがかかります。そのぶんのリターンは(この言い方は好きではない)絶大です。幼いころから塾へ行き、中受、進学校と歩を進めた人たちに、ひょいと思いついて大学受験に取り組んだ子どもたちが追いついた(追い越した)のはなぜか、ということです。

土台がしっかりできていれば社会性もうまくいきます。社会には様々な価値観、様々な人生観、様々な生き様があります。昔話は網羅しています。そしてそれらに善悪優劣の判定をしない。どんな生き方を選んでも幸せを求めていける。失敗しても挫折してもなんとかなる。

第一子が生まれたとき、「自分の人生をしっかり生きていって欲しい」とだけ願い、読み聞かせを始めました。だんだんと昔話のもつすごい力に気づき、昔話を中心に据えていきました。子どもたちが大きくなるにつれ、世界中で昔話が途切れることなく伝承されてきた理由がわかりました。

ホームスクーリングを始めたのも「自分の人生をしっかり生きていって欲しい」と願ってのことです。学校では不可能とはいえませんが。昔話の力なくして完全ホームスクーリングは不可能でした。私は子どもたちを受験に駆りたてたくなかったので、昔話なくして国立大学進学はあり得なかったでしょう。

わが家はホームスクーリングなので勉強は自由。第三子は小学生時分から教科学習にとどまらない学びを貪欲にしていました。学問への意欲も好奇心も旺盛でした。京都大学に入学させていただいたことで本人の思いが満たされるのではないかと親は望みます。それがすべてです。

ホームスクーリングだと社会性が云々、コミュ障が云々という声がありますが、杞憂です。4人ともグループのリーダーを引き受けたり人前で意見を言ったりすることは平気です。学校へ行っていた子にはそのようにできない子が多い。学校化されていないことがプラスになる。学校が育成する社会性って、何?

学校にあってホームスクーリングにないものがあります。第二子は毎日友達と会いたい、第三子は部活をやってみたいと言っていました。2人とも大学に入って、4月上旬、様々な新歓に参加してすでにそのことを実現しています。学校になくてホームスクーリングにあるものは自治です。自分のことは自分で決める。

効率重視の考え方は好きではありません。薄っぺらくハリボテのようなものだから。でも世の中では効率重視で考えなければならないことも多々あります。効率を度外視してひたすら土台づくりに邁進すればどうなるか。効率重視の取り組みもうまくできるようになります。受験がそうです。

ホームスクーリングがどうだったのか、それがわかるのはもっともっと先だと思います。人生、うまくいかないことも多々あるでしょう。その時、真価が問われる。難局にあっても乗り越えて欲しい。そう願ってのホームスクーリングでした。そこ、原点。大学進学はゴールではなく、人生の通過点。

人生において難局は大切です。チャレンジすれば必ず難局が訪れる。難局を怖れるならチャレンジを避けるしかない。子どもたちにはチャレンジしてほしい。つまずいてもこけてもいいやんか。安定も無難もいいけど、チャレンジ精神ももってほしい。感動的な人生を生きて欲しい。と、昭和のパパは願う。

土台づくりは幼少期でないと手遅れなのか。幼少期の方がより良いでしょうが、人生、手遅れはありません。脳科学の知見では高齢になっても脳は可塑性を失わないとのことで、死ぬまで成長していけるし、違う自分にもなれるのです。「手遅れ」は単なる思い込み。昔話では高齢者も活躍します。

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