大学合格後3
昔話は詳細な場面設定や心理描写がなく、きわめて構造的です。このことはデジタルとの親和性が高いと見ています。デジタルを理解するスキームは構造的であることが不可欠です。うちの子たちは文系ですが数学は苦手でなく(得点源にする子も)、デジタルも容易に理解し使いこなしています。
昔話は創作話と違って作者がいません。だから作者の価値観が混入することはないのです。そもそもウソの話ですから現実世界に拘泥することもなく自由です。状況描写、心理描写がないので非現実的なことも違和感なし。それが人を育てる力なのですが、改変された昔話が横行し昔話を破壊しています。
日本の昔話には鬼とやまんばが頻出です。夜の山は怖い。得体のしれない不気味さ、恐怖を感じます。何かがいるような。昼だとなんともないのに、夜は怖い。大人でも怖い。鬼が出てきても不思議に思わない。この感覚、都会生まれの私は童仙房へ来て初めて知った。都会に鬼はいない。怖いのは人間。
独身のころ、深夜に若者3人が拙宅へ遊びに来たことがある。やんちゃそうなヤツら。懐中電灯を持って滝へ連れて行った。自然をなめている感じだった。15分ほど歩いて滝へ着いた。深夜の深山、落差20メートル、岩盤の滝。ヤツらは滝に向かってひれ伏した。ビックリした。自然の教育力なのか。
山は穏やかで優しい顔をしています。自然には癒す力があると思う。言葉にできない神秘を感じます。ところがあるとき豹変する。夕立があって激しい雨が降ると、山は真っ黒になり、濁流が押し寄せる。山が怒ると怖い。雨が上がって晴れると、山はニコニコ。こんなところから昔話が生まれたんだなぁ。
教育のデジタル化がかまびすしい。IT業界の利権もあるでしょう。土台づくりはデジタルでは不可能、デジタル無縁です。土台がしっかりできればデジタルスキルも自然と修得していけるので心配なし。デジタルがあれば独学しやすいだろうと良く言われますが、逆です。非デジタルなのでうまくいったのです。
小中高に行かず完全独学で勉強してきた子どもたちは「わからないことがあったらどうするの?」と聞かれます。自力で解決できるそうです。読めばわかるので。そのためには解説の詳しい参考書が必要。イラストや図解が多くて説明をはしょっている参考書は使いづらいそうです。
今の時代、土台づくりという考え方は理解されにくいようです。結果を出すとか、成果の見える化に逆行していますから。土台は見えません。土台だけでは何にもなりません。けれども土台が貧弱だと成果が出にくい。見える化にこだわれば遥かな遠回りをしてしまう。簡単な理屈だと思うけど見えない理屈。
土台づくりは見えないので、何をどのくらいやればどんな土台ができるか、を示せない。でも、時間の経過と共に土台の恩恵が大きく強く見えてきます。数年かかります。土台は土台にしか過ぎず、その上に何を乗せるかは自由。受験でも仕事でも人間関係でも。
ITは素晴らしい。私はインターネット黎明期のネット婚だし、仕事や情報収集もほぼIT依存。でもITは万能ではない。大いにIT化すべきことと、ITを避けアナログでやるべきこととがある。その判断は大事だと思います。子どもたちにも常々そう言ってきました。
ITの威力の根源はデータベースとTCP/IPだと考えています。ファンタジックに言えば、大量のデータを魔法で料理する力と、どんな情報にもつながる力。他では代用できません。ただしここには「人間」がない。ネット依存になるほど孤独を感じるのはなぜか。短絡的思考、粗暴化が横行するのはなぜか。