大学合格後5
格差は他人への委託が可能な度合と言い換えてもいいと思います。委託することを前提としているかぎり格差は拡大し続けます。自力と協働へ向かえば格差の前提が崩れます。自力と自治が行き渡れば格差は解消するでしょう。だから「勝ち組」は自力と自治を嫌悪する。「自己責任」というレッテルがそう。「あんたは自分でやったんだからあんたの責任でしょう?」と執拗にせまれば自力と自治をためらう。何でもかんでも委託せざるを得ない社会にしていく。人々の手足を縛り、互いに反目・監視し合うよう分断していく。同調社会は思うつぼ。「勝ち組」が利益を増大させるために。
人間がITに使われると成果が出にくいばかりか逆効果もあり得ます。日常的によく見かけます。シンギュラリティが訪れれば人類の破滅もあり得ると多くの識者が指摘しています。そうならないためには人間がITを使うことでしょう。そのためにも土台づくりが重要だというのが私の考えです。
人生には望まざる難局がしばしば訪れます。七転八倒しつつもなんとか持ちこたえて乗り越えて行くことは難しい。そうするには土台が強い方がいい。そこまで考えて、わが家ではホームスクーリングを選択しました。もっとも、土台づくり=ホームスクーリングではありませんが。
土台づくりはあくまで土台に過ぎません。子どもたちの興味・関心は親にもわからないのでどっちへ進むかは子ども次第。ホームスクーリングは親が子どもを振り回していると曲解されることがあるけどむしろ逆。子どもたちが望む方向へフレキシブルな対応ができる。そして土台づくりが生かされる。
子どもが望む方向で力を発揮できるようにしっかり土台をつくる。幼少期には子どもの意志ではできないので。あとは基本的な学力を身につける(普通教育)。世の中を知る機会をできるだけ多く作る。子どもが何かやりたいと言えばそれをサポート。これらを学校でやろうとすると制約が大きい。
ホームスクーリングをやっていても基本的な学力は無視できません。憲法でも普通教育を受けさせる義務が定められています。ただ、どの水準まで必要か?は定めがありません。学力がどのくらいあった方がよいかを考えるのは親次第で、決まりがありません。
自分の頭で考えて自分の人生を自分で生きるには、けっこうな学力が必要だと思います。学校の試験の点数に表れる学力ではない。学校でもそのような広い学力をカバーしようとしていますが一律の形態では難しい。ただ、広い学力も教科学習(点数で測れる学力)があった方が有利だと言えるでしょう。
ホームスクーリングにおいてどのような学力を想定するかは人それぞれでしょう。わが家では教科学習で高めに想定していました。公立小中学校の上位グループ相当ていどです。そのぐらいできれば広い学力にも拡張しやすいでしょう。ただし受験は想定していませんでした。受験のための勉強ではないので。
ホームスクーリングですから、勉強をさせたくはありません。勉強を強いるなら学校へ行けばいい。自らすすんで独学でやっていけないならホームスクーリングの意味はない、と考えていました。これができないなら学校へ行く。つまりホームスクーリングありきではなかったのです。
第一子は小学6年生までほとんど勉強しなかったのでホームスクーリング失敗だと思っていました。教科学習はさっぱりですが、難しい本でも読めるし、自分の頭で考えることもできるし、好奇心もそれなりにありました。その後急激にリカバリして現在は三重大学生。土台をしっかり作ればうまくいく。
4人とも土台づくりに注力したので無理なく自然と独学ができました。スケジュールもカリキュラムもなく本人任せでうまくいきました。もしも学校へ行っていたらどうだったでしょうね?現在レベルの学力・社会性は無理だったかも。第三子は小中学校へ行っていれば京大合格は無理だったと言っています。
ホームスクーリングで完全独学をしてきたうちの子たちは勉強が苦にならない。むしろ勉強好き。だから大学へ行きたいと言い出したのは自然だったかも。ところが受験はしんどいと言っていました。結果を求められなければ楽しいが結果を求められると苦になる。当たり前と言えば当たり前なんだけど。
ホームスクーリングの存在が学校教育を攻撃するかのように錯覚する人もいます。集団における規律を学ばねば。イヤなことでもやらなければいけない。イヤな人とでも一緒にやっていかないといけない。主張ばかりではダメだ、周囲を考えろ…間違ってはいないけど、なんだかなあ…そんなに同調が大切?