[HS4]数値化できない学び
ホームスクーリングというのは、あくまでも「外見上の形」です。何を学ぶのか、どのように学ぶのか、何を目指すのか、は関係ありません。学校に行かないでホームスクーリングでやっていく、というのは、実は何も言っていないのと変わりません。
学校教育で大事なのは学力と社会性だと言われます。学校へ行かなければ学力も社会性も身につかないという偏見が根強いです。なぜそんな偏見がまかり通るかと言えば、外見だけ、上っ面だけ見て考えるからでしょう。
童仙房の小学校の統合を賛成する人たちの意見で気になることがありました。「子どもたちには競争が大事だ。競争には人数が必要だ」というものです。この意見には私は反対です。学力にも社会性にも競争は不要です。限定的な競争はあってもいいけど、行きすぎた競争は害悪をもたらします。
私がこう考えるようになったのは、ちょうど学生時代、中曽根首相、レーガン大統領、サッチャー首相の日米英トライアングルが新自由主義を導入し、世の中がそれまでとは違う方向をむきだしたのに、多大な違和感をもったことが原点です。時はバブル絶頂期。大学の同級生たちはより良い条件の大企業を目指します。カネ、カネ、カネ。カネのためには人の命なんてどうでもよいという風潮さえありました。カネが正義。反吐が出るほど嫌悪感がありました。
私は卒業後、新自由主義とはまったくちがう方向へ進み、28歳で超田舎へ移住し、ドカタ(いわゆる建設作業員)をやりました。新自由主義は学校教育をも侵食しはじめ、大学へ対しても独立行政法人化を皮切りに金儲け機関へ変質させようとしています。狂気にしか見えません。
うちの子たちは、新自由主義とは対極の生き方をして欲しい。人間であることを大切にして欲しい。
新自由主義は、「今だけ、カネだけ、自分だけ」という弱肉強食の競争原理です。ということは、なんでもかんでも数値化します。点数、偏差値、順位、序列化。そして、時間。早ければ早いほど優れているという倒錯。そこから、コスパ、タイパなどの概念が生じます。効率を重視すべき局面もあるけど、すべてを効率ではかるのはナンセンス。
わが家のホームスクーリングは、反・新自由主義です。他の家庭のホームスクーリングは知りませんよ。新自由主義的なホームスクーリングだってあるでしょう。
勉強は数値化しない。点数による評価はなし。成績表もなし。受験も試験も無し(確認テストはしばしばあるけど点数はフィードバックとしてのみ意味を持つ)。競争なし。他人との比較無し。序列化も無し。効率なんか、どうでもいい。あっちむいてホイ!
数値化できる勉強は、じつに狭い。数値化できない部分をそぎ落としてしまうので。
数値化できない学びをやっていこう。広く広く、どこまでも広く。深く深く、どこまでも深く。時間も、速くても良いし、ゆっくりでも良い。
考えるという行為には時間制限があってはいけない。効率を優先するばかりでは、考える力が育ちません。効率優先においては、考えるのではなく、反応しているだけです。
考えよう。自分の頭で考えよう。お手軽に答えを得るのも良いけど、せっかく脳みそがあるのだ。使わなくてどうする!