[HS17]親の関与
完全独学ですが、放置ではなく放任でもありません。あまりに親が無関与だったら、虐待(ネグレクト)を疑われるでしょう。
私と妻は、完全独学も完全ホームスクーリングも目指してはおらず、こだわりすらありませんでした。結果として完全独学・完全ホームスクーリングになったので、そのように告知している、ということです。
では、何を目指していたかというと、「自分の人生を自分で生きる」という、ただその1点です。学校へ行っていてはそれができないということはありません。自分自身でできることを増やしていった方がその目標に近づけるでしょう。ということから独学の発想が出てきます。でも、すべてを独学でやっていくことが可能かどうかは当初、わかりませんでした。だから、独学気味でやってみて、どのくらいできるかを調整していく。やっぱり独学では無理だとなれば、学校へ行く。学校へ行くべきではないなどという「方針」や「理念」などなかったので、子どもにとっての最適を考えてどのようにも対応できます。
学校へ行っていれば、時間割があり、カリキュラムに沿って先生が授業を進め、教科書とノートで勉強するスタイルも身につき、みんなの前で音読したり発表したりという機会があります。ときどき試験もあります。小テストなら頻繁にあるでしょう。漢字はこうやって練習するのだとか、計算練習はこうするのだとか、宿題もありますし、夏休み等には自由研究や読書感想文なども課題として出されるでしょう。成績表で評価され、クラスメートと比較されたり、懇談会などで先生からあれこれ言われるでしょう。
ホームスクーリングでは、こういったことが、完全に欠落します。勉強するということそのものがイメージできず、何をどうするのかがまったくわかりません。独学以前の問題です。ここは、親がサポートしなければいけません。勉強とはどういうことか。こうやって勉強していくのだ。ということ。学校に行っていれば、すべての子が自然と身につくことです。そう考えると、学校のはたらきは偉大ですね。
独学というのは、勉強そのものについてです。四則演算を理解し、練習して習得する。1+1=2を誰からも習わず、理解する。かけ算、わり算、筆算、カッコのある式、複雑な計算。誰からも習わず理解する。他の科目も同じです。
親は勉強内容を教えることがありません。教えなければいけないようだったら、学校へ行く。親も仕事をしないといけないし、子どもにつきっきりで教えるなんて無理です。わからないことがあればどうするか、と子どもたちがよく聞かれたようですが、自分で解決できていました。参考書をよく読み返してじっくり考えたらわかる、というようなことをそれぞれが言っています。何がわかって何がわからないか、親に聞いてこないので親にもわかりません。第四子は上の子たちにときどき質問していたようですが、「まだ勉強していないことがわからないのは当たり前だ」と言われていたそうで、そもそも質問する内容ではなかったというわけです。
毎日、勉強した内容のノートを親が確認します。問題を解いたときの丸付けは本人がします。親が丸付けすることはありません。ただ、ノートを見るだけです。時間割やカリキュラムは本人次第です。
勉強の進め方について、ある程度親が相談に乗ったり提案したりしますが、その通りにする必要はありません。学校だったら、すべてが決められていて、子どもにはなんの選択もできませんが、わが家では自由です。親としてあまり細かいことは言わないので、大枠としては誰が考えても似たようなものになるでしょう。毎日、かならず同じだけのことをやらないといけないというルールはないし、何をどんな順番でやろうとも、どの程度一生懸命やろうと、本人次第です。1日にする勉強内容・量をだいたい決めていましたが、かならずその通りにしていたわけではありません。子どもがサボっていても、親はあまり口出ししません。
テストもありません。成績もありません。だから、ノンビリしたもんです。勉強内容をどのくらい身につけたいかさえ、本人次第です。小学生では、各学年の終わりに『全科プリント』を使ってチェックをしていました。点数はでますが、あくまでも目安。よい点数を目指すということもありません。競争的なテストではなかったので、子どもたちはとくに嫌がらずに気楽に取り組んでいたと思います。
大学受験を志したあとは、一変します。
なにしろ、中学・高校の定期テスト(中間テスト、期末テスト、実力テストなど)を一度も受けたことがなく、中学受験はおろか高校受験も経験したことがないので、試験というものがわからない。成績というものもわからない。偏差値もわからない。勉強に関して競争したことがないので受験の仕組みがわからない。「志望校」という概念もわからない。学校に行っていればこういうことはあり得ません。
学校に行っていればあまりに当たり前のことが何もわからなければ、受験どころではありません。受験とはこういうものだ、こうやって志望校を目指していくのだ、受験勉強とはこういうものだ、といったことを説いていきました。
京都大学を卒業した父親なら別格の受験指南をしたにちがいない、と考える人もいるようです。まったくナンセンスです。私は受験のプロではないし、大学合格後は受験じたいがもう他人事だったので、関心外でした。
私が大学受験したのは40年近く前。共通一次試験の4年目です。今や、共通一次がセンター試験に変わり、それがさらに共通テストに変わっています。私の頃は国立は1回しか受験できなかったのに、今は前期と後期の2回(或いは中期もいれれば3回)受けられます。私の頃と違って今は、難関大学へはお金をかけなければ合格できないと思われているようですね。だったらうちの子たちは、ハナから無理ですね。
教育格差論が間違いだということはわかります。お金をかけるかどうかが無関係であることは自信を持って断言できます。大切なのは、勉強の王道です。間違いない。制度がどう変わろうとも王道は不変です。
勉強の王道とは、基礎→応用・発展→実戦の3段階を着実に歩むこと。これしかありません。異論のある人はいますか?
私が子どもたちに提供した受験指南は、この王道です。ただし、何をどうやるかを決めるのは本人です。様々な情報を得て、書店で参考書類を見て、本人が決めてきました。ここまで独学でやってきたのです。受験勉強といえど、独学でできます。
第一子、第二子、第三子とも、初年度は京都大学を受験しています。初年度は京都大学をターゲットにした受験勉強をしています。ターゲットというのは、3段階の最終「実戦」だけです。「基礎→応用・発展」はどこの大学を受けようとも、変わりません。もっとも、志望校に応じて「深さ」は変わるでしょうけど。京都大学を目指すなら、基礎をこれ以上ないというぐらい徹底する。ここが不充分だとうまくいきません。やることは同じなのですが、徹底ぶりは変わるでしょうね。
京都大学へ向けて英語や数学や古典、さらに共通テスト対策は独学で問題ありません。問題あるのは国語の現代文です。うちの子たちは、幼少期から読み書きの力を人並みはずれてつけてきたので、なにもしなくても国語が高いレベルにあります。しかし、京大の現代文は別格です。相応する参考書・問題集が存在しません。現代文のみ、受験前の数カ月、私が深くサポートしました。