日本と世界1(世界は1つ?)
わが家は、完全ホームスクーリング(完全独学)です。だから、コロナの影響は、教育については皆無です。誰にも教わることなく、子どもたちは自力で小中高の勉強をしています。勉強の内容ですが、基本的に日本の学校の学習指導要領に準拠しています。つまり、学校に行っている子たちが使う教科書、参考書、問題集です。学校に行っている子たちと同じ内容を独学で勉強しています。
しかし、それだけなら、独学にこだわらず、学校へ行けばいいです。学校へ行っていても、自宅学習は独学になるでしょう。学校では困難な(不可能な)勉強のあり方に大きく取り組んでこそのホームスクーリングです。現在の学校教育では、「教養」はあまり重視されません。かつてのエリートたちは高い教養を身につけていましたが、現在は、国家をあげて教養を粗末にする方向です。教養とは、人文社会系の学問に基づく素養をいいます。文学、歴史、哲学などを、教科書レベルではなく、血となり肉としていくのです。金儲けに直接関係ない学問などつまらないという風潮です。教養は金儲けとは無関係です。たまに金儲けにつながることもありますが、結果論です。しかし、より良く生きるために、教養は不可欠です。そして、社会により良い貢献をするために、教養は不可欠です。
このような信念で、子どもたちには、人文社会系の教養を身につけさせることを幼い頃より重視してきました。教養を身につける手段は、一にも二にも読書です。そして、読書の内容です。
とくに、21世紀に入ってからは、グローバリゼーションが加速し、日本での教育もグローバルを念頭に置いた論が目立つようになってきました。世界が1つになる方向は良いと思います。戦争もなくなる方向へむかうでしょう。格差がなくなりはしなくても問題は縮小していくでしょう。環境問題も改善へむかうでしょう。ただ、グローバリゼーションを手放しで肯定できないのも事実です。このような世界の諸問題が改善・縮小へ向かうのではなく、悪化・拡大へ向かうシナリオもあるからです。
どこでシナリオが分かれるかというと、「世界が1つになる」のが、「一様としての1つ」なのか、「無限に多様としての1つ」なのか、ではないかと、私は見ています。「一様としての1つ」なら、破滅的なシナリオにならざるをえないでしょう。日本の政治や経済の戦略、そこからひいては教育の戦略も「一様としての1つ」を目指しているようにしか見えません。究極の競争社会、ごく一部の勝者と圧倒的多数の敗者、『1984』の世界を彷彿とさせます。「無限に多様としての1つ」は、イメージしづらいのかもしれません。しかし、日本人にとっては、そんなに違和感のあるパラダイムではないはず。
わが家で子どもたちに求める教養とは、「無限に多様としての1つ」へ向かうものです。次回にはもう少し詳しく。