日本と世界17(学びとの関係)
前回まで、大元出版が伝える出雲の伝承を連載しました。これが「独学」と何の関係があるのだ?ってことですよね。それを書きたかったんですが、しばらく中断している間に、出雲関係の記事ばかりアクセスが増えて、何のブログかわからなくなりつつあります。もちろん、わが家の家族全員、出雲の伝承に興味津々で、出雲ゆかりの地(出雲を中心に島根県、飛鳥を中心に奈良県、大阪府の三島や百舌鳥古墳群、伊勢、滋賀県の大津京や湖東地域、京都府南部の加茂町)など、足繁く訪れました。
出雲の伝承は、歴史学で明らかになっている知見、発掘された(でも解釈されていない)遺跡や遺物、各地に残る古い神社や伝承と非常によく整合します。今後、新たな発見や発掘があったり、学術研究が進んでいくと、さらに出雲の伝承が裏づけられていくだろうと期待します。
しかし、そもそも私の関心の出発点は歴史ではなく、日本の文化(日本のこころ)でした。古代より、先進国であった中国から多くを学んで国造りをしてきたにもかかわらず、言葉は似ても似つかない別物です。中国と交流するより前に、確固たる日本語があって、その上に中国を受け入れたとしか考えられません。中国の政治や文化を積極的に学び、取り入れていながら、伝統文化は大きく違っています。戦後、私たちはアメリカの後追いをしてきたようで、アメリカの文化とは大きく違っています。
もともと、日本にあったものは、なんだろう? 中国とは全く別の、何か。
日本に伝統的に伝わる重要なものの1つに、学び方があるようだと、私は若い頃より考えてきました。現在の欧米式の学び方とも全く違うスタイルです。
それは、出雲なのではないかと考えるようになってきました。出雲の起源は、インダス文明をつくってきたドラヴィダ族です。インダス文明はまだ多くが未解明のままです。インダス文字さえ解読されていません。日本語の起源がタミル語(ドラヴィダ族の後裔)にあると大野晋さんが指摘しましたが、日本語は中国、朝鮮、欧米など、さまざまな文化や言語を取り入れて多層化されているので、1つの起源を指摘することは困難で、タミル語起源説が広く支持されているとは言えません。出雲の歴史をかんがみれば、日本語の最も基層部分にドラヴィダ語があったと考えることができそうに思います。そうなると、欧米人がインダス文字を解読することは不可能で、いつの日か、日本人が解読に成功するかもしれません。
このサイトで繰り返し述べている独学のあり方は、わが国に古くより伝わる、日本人には目新しいものではないスタイルで、日本以外ではあまり見られないスタイル(と言い切る自信はありませんが)でしょう。それは、ひと言で言うと、「道(どう)」ではないかと考えています。茶道、華道、柔道、、、なんでもありで、勉強道、ゲーム道、野球道、などなど、どんなテーマでも「道」を立てることができ、それが何を意味するか、日本人ならなんとなく通じるでしょう。それは、中国の道教ではなく、アジア諸国の学び方とも異なっています。21世紀、わが国が世界へ貢献できるかもしれないものの1つではないかと考えています。