昔話のしくみ
マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話』(小澤俊夫訳/岩崎美術社)というやや古い(1969年)本があります。昔話の形態と仕組み(語り口)について理論を打ち立てた、古典的名著です。
昔話は、書物に書かれた文学ではなく、口で語られてきた文芸です。なので、独特の語り口がありますが、それは語り手によって異なるはずで、研究対象とはみなされていませんでした。マックス・リュティは、ヨーロッパで語られてきた昔話を研究し、語り口に法則があることを見出しました。
昔話の語り口は、抽象的で、平面的で、孤立的で、一次元的です。まとめて言えば、平面図形的となります。訳者の小澤俊夫さんの言葉を借りると、切り紙細工のような、となります。
昔話は感情の世界を述べることはしない。昔話はそれを物語のすじのなかにおきかえ、内的世界を外的事件の平面へと移しかえる。
昔話の図形的登場人物は内面的世界も周囲の環境ももっていないし、先祖や子孫との関係もないし、時代との関係もない。
文学だと、人物の心の動きや背景を細かく描写します。昔話は、理由も感情も説明もなしに、たんたんと出来事だけを語ります。
平面性が決定的に一貫しておこなわれると、昔話は現実から離反した性質をおびてくる。昔話はそもそも先験的に、具象的世界をその多様な次元のまま感情移入的に模倣しようとめざしているのではない。昔話は具象的世界をつくりかえ、その諸要素に魔法をかけてべつな形式をあたえ、そうやってまったく独自な刻印をもった世界をつくりだすのである。
たとえば、狼と7匹の子ヤギで、さいごに狼のおなかをハサミで切ると、なかから6匹の子ヤギがそのままででてきます。血まみれでもなく、けがもせず、何事もなかったかのように。まさに図形的です。お母さんヤギは狼に憎しみをもつわけでもありません。ヤギの指?でハサミを使えるかどうかなど、無頓着です。そもそも、ハサミを買ったのか、盗んだのか、そういう背景や理由も不要です。いきなりハサミがでてきて、じょきじょき切った。それだけです。(これを残酷だとみなすのは、おかどちがいです)
お父さんヤギは登場しません。離婚したのか、死別したのか、何も言いません。出来事の展開に必要最小限の登場人物しか語りません。
贈物は昔話の中心的モティーフである。昔話の図形的登場人物は自己の内面的世界をもっていない。そして当然の帰結として、そもそも自分で決心することはできないわけである。それゆえ昔話は、その図形的人物を外的原動力で前進させるように心がけなければならない。王の命令、父親の命令、ある娘の危険な状態、あるいは娘があたえる求婚者の試験、そういったものが主人公を世のなかへつれだす。課題と危険は彼に決定的な可能性をあたえる。贈物や忠言、あるいは彼岸者や普通の人間の直接的介入が彼を助けてくれることを進める。
図形なので、意志を持たず、自らは動けません。出来事が図形を動かします。このような展開は、非常に多くの昔話でみられます。文学のように葛藤・不安・恐怖などはありません。
では、このように、とことん図形的に語ることに、どんな「意味」があるのでしょうか?
目に見える孤立性、目に見えない普遍的結合の可能性、これが昔話形式の根本的標識とみなされてよいだろう。孤立した図形が、目に見えないものにひかれて、くみあわさって調和的アンサンブルをなしている。両者がたがいに規定しあう。どこにも根をおろしていないもの、外的関係によっても拘束されず、自己の内面との結びつきによっても拘束されないもの、そういうものだけがいつでも任意の結合をすることができるし、また分離することができる。逆に孤立性は、なにとでも関連をもつことができる能力によってはじめてほんとうの意義を得る。もしその能力がなければ、外的に孤立している各要素は、不安定にばらばらと散っていってしまうだろう。
昔話が図形的であるという特徴を指摘するだけでは昔話の本質に迫れません。なぜ図形的なのか。この分析が圧巻です。時も場所も感情も背景も理由も(つまり5W1Hを)そぎ落として、具体的な文脈をまったく落として、きれいな抽象図形を描くのは、調和をもたらすためだといいます。調和して終わりではありません。調和とは、世界です。
昔話は、ことばの真の意味での世界を包含する文学である。それはあらゆる任意の要素を、純化しつつみずからのなかに受けいれることができるばかりでなく、現実に、人間存在のあらゆる本質的要素を反映している。ひとつひとつの昔話でさえ小世界と大世界、個人的事件と公的事件、此岸的関係と彼岸的関係を内包している。ところが四編ないし五編の昔話を完全にまとめてみると、(実際の昔話の語り手は、ほとんどだれでもそれくらいの数の昔話を自由に話すものだが)われわれの眼前に豊かな人間の可能性が展開されるのがわかる。
極限まで抽象化された語りだからこそ、世界のすべてを包み込むことができるというのです。そうなると、そぎ落としたはずの具体的な人間関係や出来事、人としての迷いや葛藤など、この世の、自分をとりまくあらゆる現実が昔話を通して、いきいきと展開されるのです。
ところが昔話はなにも要求しない(意図がない)。昔話は解釈せず、説明もしない。ただ見て叙述するだけである。
昔話はそれらを説明しないでおいて、ただその正確な、意味深い活動を示すだけである。昔話は、その説明を断念しているからこそ、われわれの信頼を得るのである。
ここにも、逆説的な論がひろげられます。「意図がない」という言葉は、『弓と禅』の師範の言葉を想起します。日本の伝統文化の「道(どう)」の稽古を見るかのような記述です。
虚構をめざしているのではない。昔話の抽象的叙述は、昔話が叙述しようとしているのは本質性なのであって、現実性ではないということに、一瞬たりとも疑いの余地を与えない。
昔話は現実離れしたおとぎ話ですが、娯楽ではありません。現実をそぎ落とすがゆえに、本質に迫れるのです。それを民衆は感じているのだ、とマックス・リュティは言います。
昔話を、幼い子のおもちゃのように思っている方も多いでしょうが、けっしてそんなことはありません。もしかすると、どんな偉大な文学作品よりも偉大であると、そう言っても言い過ぎではないと、私は考えています。