差別を学ぶために昔話が大切

昔話は、差別、暴力、残酷、裏切り、詐欺などの「悪徳、悪業」がふんだんに、平然と描かれます。
これらがリベラルのポリコレコードに抵触します。
数十年前の児童文学もそうです。

昔話と児童文学は全く別ものです。
昔話は、誰が作ったかわからないお話が無数に人々によって語りつがれてきました。
児童文学は特定の作家が書いたお話です。

どちらもそれぞれ子どもたちの成長に大切なものですが、とくに「独学の力」では昔話を中心にしています。
そもそも昔話は、人類の悠久の歴史において、子どものみならず大人の成長、人格形成の基本でした。
昔話は非常に大きな力を持ちますが、その力は測定できず、エビデンス的な捕捉が不可能です。
現代流行の教育プログラムは「○○を3週間継続すると●●が達成される」というマニュアル的、ハウツー的なものですが、昔話は全人教育的なので、マニュアルやハウツーではまったく捉えられません。

全人教育的ということは、知育、社会性、多様なスキル、行動力、生きる力、状況適応力など、あらゆる面の土台を開発します。
昔話だけで偏差値が上がることはありません。
昔話を大量に読み聞かせると、考える力が育成されるので、勉強が容易となり、結果として偏差値があがります。
人間は社会的な生き物ですから、社会性はとても大事です。
学校に行かないと社会性が育たないかのような言説がありますが、それはとても偏狭です。
学校でも社会性は育つでしょうがそれは社会性の一部です。
社会は非常に多様で複雑です。
昔話を大量に読み聞かせることで、それらに対応していく土台が育っていきます。

なぜ昔話にそのような力があるかということですが、国内外の研究者の論を参考にすると、具体的な描写がなく、シンプルな枠組みだけなので、どんな子でも(大人でも)そのお話の中で生きていくことができ、経験や体験を幅広く蓄積していけるということではないかと思います。
昔話研究者の小澤俊夫さんは、昔話は切り紙細工のようなものという表現をしています。
平面的で登場人物の心理も意思もなく、たんたんと物語が進みます。「首を切った」といっても紙を切るような感じで、血が飛び散ったり苦悶の表情を浮かべたり悲鳴を上げたりということはありません。文化背景も時代背景も明確ではないので、現代の日本の子どもがすんなりとお話に入っていき,登場人物になりきります。
児童文学は描写が具体的で緻密なので、昔話とは作用機序が異なります。

昔話が差別や悪徳・悪業を含むということは、まさに現実世界の実相です。
差別することを経験し、差別されることを経験します。
差別を克服する経験もします。
差別したことでみじめな思いもします。
まさにこれこそが「差別を学ぶ」ことにほかなりません。
昔話を大量に読み聞かせると、差別に敏感になります。
それはそうでしょう。多彩な経験をしてきたのですから。

昔話をポリコレ的に改変することが流行しています。
差別、残酷、悪徳、悪業を排除し、無難なお話にまとめ、大人の道徳的所感を付加しています。
これでは何も学べません。
何も経験できないのに、一方的な道徳を押しつけられます。
リベラルは道徳の必修化に激しく抵抗しましたが、昔話の改変で同じことをしています。

なぜ差別がいけないか?
差別されるとつらいからでしょう?
差別するほうもみじめだからでしょう?
それを経験せず知識として教え込んでも身につきません。
だからといって、学ぶためにじっさいに誰かを差別するのはよくない。
そのための昔話です。
差別も暴力も残酷も裏切りも詐欺も実際にやるのはよくない。
よくないということをどうやって学ぶのか?
今はそれを学んでいないと思われる事例が多発しています。

昔話が排除されているからですね。
ポリコレ的改変も排除のうちです。

ポリコレ違反の昔話を大量に読み聞かせると、まっとうなポリコレ感覚が育ちます。
不寛容なポリコレではありません。
差別者を差別するとか、多様性を理解しない人を排除するとか、そういう「ポリコレもどき」ではありません。

差別とは何でしょうか?
何かを基準に上の人が下の人を見下すことではないでしょうか?
マジョリティがマイノリティを疎外することが差別だという説明はおかしい。
現在の新自由主義において、圧倒的な力を持つ富者はマイノリティであり、無力な庶民はマジョリティです。
マイノリティがマジョリティを差別しています。

とするなら、能力(学歴)も差別なのでは?
高学歴が低学歴を見下す。
これを差別だとは認識されていないようですが、うちの子たちは敏感です。

歪んだポリコレは自分を正義だと思い込んでいるので、他者に対して「わかっていない」と見下す。
差別ですよね。
ほんとうにそれは正義なのでしょうか?
100年後にも変わらず正義なのでしょうか?
どんな社会、どんな文化においても正義なのでしょうか?
わかっていない人々を排除したり罰したりすることが正義なのでしょうか?
そもそも、何をわかっている・いないのでしょうか?

昔話を排除してしまうと、差別が見えなくなります。

昔話を大量に読み聞かせると、全人的土台ができます。
つづいて、ポリコレ違反満載の児童文学、文学を読んでいくと、昔話の多彩な「経験・体験」がさらにアップデートされていきます。

ちょっと注意なのですが、文学作品をたくさん読んでいる人が全人的土台ができているかというと、必ずしもそうではない。
やはり土台は昔話でないと育成できないのではないかと感じています。
その理由は昔話があまりにシンプルだからです。

昔話で土台ができていればこそ、児童文学、文学が生きてくる。

テレビ、マンガ、ゲーム、SNS、動画などのサブカルチャーで思考力の育成ができないか、昔話でできるんだったらサブカルでもできるだろう、という意見もあります。
じっさい、世の中を観察していると、サブカルのみで思考力の育成がうまくいっているケースはなかなか見あたらない。
皆無かどうかはわかりません。

ただし、昔話で土台をつくり、児童文学、文学(もちろんこれらはポリコレ違反満載のものです)とアップデートしていけば、サブカルも思考力の育成に寄与できるようです。
ようするに、土台があればサブカルも有用だし、土台がなければただのお遊び、ということです。

つけたしです。
昔話には詐欺も非常によく出てきます。つまり、詐欺体験ですね。
昔話を大量に読み聞かせると、詐欺にかかりにくくなるのは当然です。
ポリコレ改変によって詐欺にかかりやすい子が育ちます。

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